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年齢も性別も職業も異なる5人がいる。同じ街に暮らす他人同士で、言葉をかわすこともない。彼らはフェティシズム(生命のない物体への性嗜好)を有すが、日曜に一人きりで行うので誰にも知られていない。青年(ペトル・メイセル)は郊外の廃墟で鶏の仮面をかぶり、鶏料理を共食いし、アパルトメントの隣人を模したぬいぐるみを岩で撲殺する。その隣人である中年女(ガブリエラ・ヴィルヘルモヴァー)は郊外の洞窟で、青年に模したぬいぐるみを全裸にし、四つ這いで歩かせ、鞭打ち、水責めで殺す。刑事(パウェル・ノヴィ)は自宅の物置で、鍋蓋や麺棒に万引きした指サックや釘や動物の毛をみっしりと貼り付け、からだ中の皮膚に滑らせる。郵便配達婦(バルボラ・フルザノヴァー)は、パンの内側の柔らかいところを唾液で粒状に固めたものを、鼻と耳の中へ挿入し、ベッドに仰向きになる。雑誌店の主人(イジィ・ラーブス)は、テレビ画面のニュースキャスターの女性(アナ・ヴェトリンスカー)にすがりつき、レースをはめた女性の手の模型を機械仕掛けで動かし、背中をさすられながら手淫もしてもらう。 フェティシズムの奇想天外な意匠がこの映画の見どころだが、5人の行為はマスターベーションへの執念でもある。セックスはパートナー無くしてはできず、なんらかのコミュニケーションが生じるが、マスターベーションは単独で可能。セックスが十分にあってもマスターベーションが欲しくなる、むしろ、マスターベーションという美食を追求し、セックスは腹ごなし程度、無くても別段かまわない、というのが5人の性質に潜んでいるようだ。雑誌店の主人は、ニュースキャスターの女性というより、テレビ画面に映る電気信号の彼女に感応するらしく、本人との関係は欲望しない。青年と中年女は、想像の中でぬいぐるみが生き物のように動き出すものの、姿は最後までぬいぐるみのままで、実物に見えはしない。刑事には妻(ニュースキャスターの女性)がいるが、夫婦生活を無視して道具作りにいそしんでいる。刑事の妻は夫婦生活のとぼしさを嘆くが、映画の最後のほうで、魚の水槽に足を入れることに強烈な官能を発見する。妻も仲間入りするのだろう。この映画は無声映画ではないのに、限りなく無声映画に近い。あって当然の場面でさえセリフが無く、ことに5人は黙って目を動かす程度だ。言語という主要なコミュニケーション・ツールが使用されず、他の方法も十分ではない。コミュニケーションそのものへの意志が希薄なのだ。 映画の冒頭で、青年がポルノ雑誌を買う。恥ずかしくてたまらないとばかりに逃げるように立ち去り、鍵をかけた自宅で鑑賞、欲情するとクローゼットの中に隠れて行う。この映画では、ありふれた性の営みにさえうしろめたい罪悪の影があり、その分、日曜の侵犯の快楽が増大する。平日、5人は誰にも知られないように滑稽なくらい警戒しながら、このうえなく真剣に日曜の準備に取り組む。週末は休息あるいは欲望のときである。他者とのコミュニケーションのいらないクローゼット(秘密という意味もある。)の中で自給自足の性的興奮に興じても、それなりの過不足と虚しさはある。しかし、クローゼットの外に比べればましなのだ。うしろ暗く、真摯で、ばかばかしく、いじらしく、妄想から現実へはみ出しそうな濃密な情熱が、クローゼットに飽和している。バチアタリな情熱の最中、テレビのニュース番組にローマ教皇や戦争や葬儀が映る。この映画は、最も知られたくないと願う他人の秘密をさらしものにするが、けっして下卑た優越感に陥ってはいない。自分と異質の他者をいじめるのではなく、自分自身を覗くような嫌悪と憐憫のスタンスである。 (2005/09/18) |
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