監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:オレーグ・ヤンコフスキー
    エルランド・ヨセフソン
    ドミツィアナ・ジョルダーノ
■1983年、イタリア、126分、カラー



 ロシアから来た詩人のゴルチャコフ(オレーグ・ヤンコフスキー)は、彼を恋慕う通訳のエウジェニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)と、イタリアのトスカーナ地方の村を訪れる。ゴルチャコフは、18世紀のロシアの音楽家サスノフスキーの伝記を書くために、その軌跡をたどっているのだ。イタリアを放浪したサスノフスキーは、帰れば奴隷になる危険がありながら、郷愁に駆られて帰国し、悲恋の果てに自殺した。イタリアを巡り、同じく郷愁に駆られているゴルチャコフは、村人から狂人扱いされている熱心なキリスト教徒のドメニコ(エルランド・ヨセフソン)に出会う。魂の通じ合う何かを感じ、ドメニコに近づいたゴルチャコフは、ある祈祷を頼まれる。ろうそくを手に温泉を渡り、その火を消さずに渡りきれたら、世界が救われるというのだ・・・・・・


 スターリン政権下での映画制作が困難になり、祖国を離れたタルコフスキーは、1983年、イタリアでこの作品を撮った。翌年には公式に亡命宣言をして、1986年にパリで病死するまで祖国に帰ることは一度もなかった。主人公ゴルチャコフはタルコフスキーの分身たる人物で、彼がロシアの自宅を回想する風景が、幻想的なセピア色を帯びて、魂の安住の地といった風情で映しだされるため、この作品がタルコフスキー自身の祖国へのノスタルジア(郷愁)だというのは定説である。しかし、ここで扱われている郷愁は、サスノフスキーの皮肉な最期のように、単に自分の人生とゆかりのあった土地にいれば満たされるものではなく、それは時の隔たりのせいでもない。ゴルチャコフの自宅の思い出は、現実離れした神秘性を漂わせながら、思い出が本物を殺して作られるしくみも同時に感じさせるのだ。つまり、ゴルチャコフの郷愁は、寄りどころのない心が、漠然とどこか新しいところに旅立ちたくなるように、漠然とどこか懐かしいところへ帰りたくなる心理。青い鳥を求めるような、永遠に満たされない孤独な渇望なのだ。


 タルコフスキーの映画には、女性の母性に対する大きな期待とともに、現実の女性(ことに母)への失望感が如実に現れる。孤独にさいなまれている男性がいて、その一番近くにいながら心の通わない冷たい女性がいて、現実の女性に失望した男性の寂しさが、いにしえの聖母へ向かうというのは、彼の映画を構成する重要な精神だ。この作品も、女性たちが子宝祈願で聖母マリアを祭る儀式からはじまり、聖カテリーナが訪れた村を舞台にするなど、聖母崇拝が濃い。現実の女性エウジェニアは、ゴルチャコフの愛を欲しがりながら、彼をまるで理解しないエゴイストとしての存在だ。郷愁というかたちでゴルチャコフが焦がれているのは、無差別にすべての子供に乳房を含ませる聖母たる母性のふところに、自分の全存在を許され、包み込まれることではないのか?ドメニコ(彼もタルコフスキーの分身である。)の家の不気味な赤ん坊の絵画は、いくつになっても聖なる母性を求めてやまないタルコフスキーの歪んだ肖像であり、しかし、供物として神に自死を捧げたドメニコのように、狂おしいほど真摯な願いなのだ。


 タルコフスキーの映画の水は、そんな憂いに閉ざした男たちの胸元に流れこむためにある。哀しみを解し、寄りそうように、いたるところに流れ、したたり、こぼれ、たゆたう・・・・・・


(2004/09/16)


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