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将来自分の妻にしようと、当時六歳だった少女(ハン・ヨルム)を誘拐し、以来十年ものあいだ、遠い沖に浮かべた船に監禁して、理想の妻を育ててきた老人(チョン・ソンファン)。すでに世を見限った老人は、少女を愛情深く育てることに余生のすべてを費やし、その状況自体の非道さの他には、少女に暴力をふりかざすことも一度もなかった。そのかいあってか、何も知らない少女は明るく素直に育ち、十年間船の外に一度も出たことがない異常さにも気づかず、老人がボートで連れてくる釣り客を見ても、彼らがどこから来るのか疑問をもつことさえ気づかない。つまり、それほど少女は満ちたりており、船にたくさんの釣り客が出入りしても、誰も犯罪に気づかないのだ。少女は今や十六の美しい娘になり、老人は三ヵ月後の結婚の準備を嬉々として整える。 そこへ転機がやってくる。老人は、釣り客のある青年(ソ・ジソク)を見た瞬間、今までの下卑た客とは違う誠実さ認め、この青年なら少女も惹かれるに違いないという不安が走り、少女が青年に近寄っていったのを強引に連れ戻す。少女はたしかに青年に親しみをもったが、はっきりと恋愛感情と言えるものはまだもっていない。しかし、老人は老いの引け目から、少女がこの青年に恋をすると思い込んでおり、青年のほうも少女に好意を寄せながら、内心で老人と同じことを考えてうぬぼれている。つまり老人と青年は、男性が若い女性に惹かれるように、当然女性も若い男に惹かれるだろうという先入観を持っており、だから、少女が最終的にみずからの意志で老人との結婚を選ぶまで、少女の内面でどのように気持ちが移り変わったのかを読み取れないのだ。彼らはこう誤解していた。青年のおかげで自分の境遇を知った少女が、老人を憎んで愛しい青年と船を出ようとするが、自殺しようとした老人の一途さに心を動かされて、やはり船を出ずに老人と結婚することに決めたと。 だが、少女の本当の気持ちは、老人と青年の解釈とは全然別の場所にあった。少女にとっては、青年の出現によって垣間見た老人の動揺が、少女の取り残されていた心理的発育の引き金となるのだ。青年に近寄っていった少女を老人が慌てて連れ戻したとき、少女はなぜ老人が怒るのか始めは理解できなかったが、一瞬後でふと閃く。少女を失うことが、老人の一番の恐怖であり苦しみであると。それは少女が初めて察した老人の弱みであり、次に少女はわざと老人を嫌いになったふりをして、老人の怒りの眼の奥が怯えと苦痛にこわばるのを確かめる。そしてその眼を見るとき、少女の深奥に、今まで経験したことのない仄甘い喜びが広がるのを、また新たに発見するのだ。少女は、気に入った遊びをしつこくくりかえす子供のように、老人を嫌いになったふりをしつづけ、さらに青年に恋をしたふりをすれば、老人をもっと苦しめることができると気づく。少女が発見した、自分を愛している相手が自分への愛情に苦しむさまに仄甘い喜びを覚えるという感覚は、なにもこの少女に限ったことではないはずだが、老人も青年も最後まで少女の遊びに気づかないところを見ると、監督はこの発見を女性の本能に属するものとしているらしい。つまり、老人と青年が少女の気持ちを誤解していたのは、彼らが男性とは違う女性の価値観に思い至らなかったせいもあるが、少女が彼らに誤解されているのを知りながら、あえてそのまま誤解させておいたせいでもあるのだ。 しかし、そうした遊びのなかで、少女は思いもよらずいらだちをつのらせることになる。老人の優しくたくましい面しか知らない少女には、老人の苦しみようが思いのほか酷く、老人が青年に対していじけた劣等感をもったり、少女の青年から貰ったプレゼントを壊したり、結婚の日にちをごまかして前倒ししたりと、今まで見たことのないずるさや臆病さが堰をきって現れたことに大いに幻滅するのだ。少女は、船から出たがったり、他の男に近づいたりして、それらのすべてが老人に阻まれるのにいらだつが、少女がいらだつのは、愛する者を信じて放っておけない老人の意気地なさであり、老人が考えているような、船から出られないことや、他の男に近づけないことではない。もう少女はふりではなく本気で老人を軽蔑しつつ、老人の真の姿を確かめようとする。だが、そうして老人のあまりの弱さを知るうちに、幻滅の底から、優しくたくましくあるのはむしろ自分の役目ではないかという新たな気持ち、つまり初めての母性的な感情が持ち上がってくる。だから、老人を嫌うふりにも、当初の老人が自分への愛情にどこまで狂うか確かめたい気持ちと、追って芽生えた子を思う母のような切なさとの両方の気持ちが帯び、老人が少女を失う悲しさから自殺未遂をしたとき、やっと少女の二つの気持ちは共に結婚を決め、少女はここで初めて種明かしのように老人を抱きしめるのだ。 少女の視線は、最初から最後まで、老人にしか向けられていなかった。愛情と憎悪の、さまざまに揺れ動く想いのなかで、ずっと老人の人間を解体し、最後に結婚というかたちで受容したわけだ。そうした心の動きを覚られぬよう、老人を嫌い青年に恋するふりをしつづけていたのは、少女の無意識の領域でなされる本能的な作為だ。老人が少女を船のなかに十年も閉じ込めていたのは、犯罪の発覚を恐れてというより、人格形成の重要な時期に少女に世間の悪知恵がつくことを恐れたからであり、たくさんの釣り客のなかに女性が一人もいないのも、少女が他の女性を真似ないよう、老人が断っていたからだろう。無菌室で純粋培養しなければ理想の妻を手にすることができないという発想そのものが、女性不信の極致なのだから。つまり、少女は何も教わらず、何も影響を受けていないので、少女の姿はありのままの自然ということだ。入浴や排泄を人に見られても恥ずかしいという気持ちが起こらないのもそのせいだし、初めての性交のとき何をしているのか分からないのに自然と腰が動くのもそのせいだし、それと同じ原理で、自分を愛している男性が自分への愛に苦しむのに仄甘い喜びを覚えたり、わざと嫌うふりをしてその苦しみを深めさせたり、男性の弱さへの幻滅の底から母性的な愛情が湧き起こったりする。それは、女性の心理的第二次成長とでもいうべき発育であり、この映画が中心に据えるのも、十年におよぶ拉致監禁という老人の弱さゆえの非道ではなく、そのような異常な環境さえも凌駕する天然自然の次元で、開花まぎわの花のように急速な発育を遂げる少女の心なのだ。だから、この映画の本当のオープニングは、少女が先に書いた発見をした直後に、心のなかで仄甘い悪巧みにうっとりしながら、意味もなく釣り針を口に含んで妖しい笑みを浮かべるシーンだ。この映画のタイトルでもある『弓』とは、弓の形をした女性なのだろう。あるときは楽器に、あるときは凶器になり、凶器のなかに楽器が、楽器のなかに凶器が、相対せずにむしろ親しく共存しているところに、汲めどもつきぬ魅力がある。それを悟らぬ老人も、我知らず胸の奥深く弓を押し抱いているのだ。 (2007/07/12) |
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