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OLの京子(小池栄子)はテレビのニュースで、見ず知らずの中流家庭の一家を皆殺しにして死刑を希望している坂口(豊川悦司)を知り、彼の貧しく冷たい生い立ちも知って、まさに自分の分身と出会ったかのように惹かれ、彼にプロポーズする。 無差別殺人犯に自分の分身を見るという傾向が、元々京子にあったわけではない。京子が坂口に急接近するのは、テレビで彼の事件を知る直前、職場の同僚から隠微なやり方で残業を押し付けられたのをきっかけに、京子自身の怒りが爆発しそうな状態になっていたからだ。同僚は京子の断りたいようすに気付いていたのに、京子が言葉で言わないので気付かないふりをして残業を押し付けた。言葉に表されたかどうかで気持ちのありようを判断するのは現実を捌くのに便利だが、現実には言葉に表すのが難しい混沌とした気持ちのほうが圧倒的に多く深く存在する。しかし言葉にならない気持ちの存在を他の人にも分かるかたちで伝えるのは難しい。同僚はそこにつけこんだ。人の頼みを言葉で断れない京子は、今回の出来事だけでなくこれに似たいろいろな経験を思い出し、そんな折に坂口の事件に出会った。 要するに京子に必要なのは、坂口に共感する自分を通して自分自身の限界まで溜まった怒りに気付き、その怒りが何に対するどういう理由のものなのかを探ることだ。しかし京子はそれをせずにただ坂口に急接近する。自分の中の怒りに正面から向き合わなかったのは、見ず知らずの幸福そうな一家に八つ当たりした坂口も同じだが、坂口と京子との違いは、自分一人で自分の怒りを発散することが坂口にはできたが、京子は自分にはとてもできそうもないと思っていること。京子が坂口を影ながら見守るにとどまらず直接接触しようと熱心になるのは、坂口に頼もしさを覚え彼に支えられて自分の怒りを発散したいからだが、しかし京子はあくまでも自分の怒りを自覚していないので、彼を利用していることにも気付かない。 京子が自分の怒りを自覚できないのはなぜか、というのがこの映画の重要なところであり、京子の深刻さの現われでもある。京子は怒りを表現することも恐れているし、それ以前に怒りの感情を自覚することさえ恐れている。彼女の水面下ではすでに爆発しそうなほど怒りが溜まっているので、彼女がその状態から解き放たれ健やかさを取り戻すには、その怒りが具体的に何に対するどういう理由のものであるかを探索し、その対象をはっきりと思い浮かべて自分の感情をありのままに感じ切ることが必要だ。しかしそうすることは彼女にとって、自我崩壊の危険を冒すかのように怖ろしく、死ぬほうがまだましだと思われることであり、それはそう思う必要性が彼女の過去、すなわち彼女が上京して以来決して近付こうとしない実家にあったことを示唆している。 京子の子供時代のことはこの映画の中で直接的には語られないが、相当不幸だったに違いないことが、集団が組織化することに対して彼女が非常に悪い印象を持っていることから推測される。彼女が生まれて初めて出会った集団である実家が、暴力的なヒエラルキーの下に組織化され、彼女に八つ当たりの相手役が固定化され、彼女が怒りを表明することにも何らかの暴力が加えられていた可能性がある。彼女は怒りの感情を自覚しないことで子供時代を切り抜けたが、上京して自活している今でも感情を切り離す癖が抜けず苦労している。彼女が、自分の個人性が組織の中で認められないことを確信し、自分の分身と見なした坂口以外の人をみな一括に「組織の中の人」というふうに軽蔑敵視しているのも、実家から類推しているのだろう。 たしかに八つ当たりの相手役というのはもっとも個人性を無視されている。現に坂口に殺された一家は、彼ら特有の家庭の事情もあっただろうに、見ず知らずの坂口に一目で幸福な中流家庭の代表として選ばれ殺されてしまった。坂口が当初拘置所でもどこでも平気で眠れたのは、殺した一家の個人性を無視することで罪悪感というもっとも不快な感情の湧くのを防いでいたからであり、彼は京子に優しくされて心を開くようになると、殺した一家の個人性に気を留めるという健全さを取り戻し不眠症になる。 一方、京子がその一家を自分と同じ八つ当たりの犠牲者として同情できないのは、彼女もまたその一家の個人性に思い至らず単に幸福な中流家庭の代表と捉え、自分の実家での経験から幸福な家庭は見えない犠牲のために成り立っていると思っており、坂口の犯行に自分の仇討ちをしてもらったかのように胸がすいたからだ。京子は坂口がその一家にしたように、バースデーソングを歌われつつ撲殺されるような混乱した子供時代を送ったのだろう。言葉で表現された以外の気持ちの存在を証明することの難しさと、そこにつけこんだ隠微な暴力とに、京子は同僚の件よりずっと前に出会っていたのだ。 この映画の舞台はほとんど拘置所や裁判所などの司法機関だ。京子が司法制度のありようを通して国家の問題を浮き彫りにしようとするのは、刑事裁判の扱うのが加害者の国家の平和を損なった罪であり直接の被害者に対する罪ではないということが、組織の中で個人性が尊重されていないことの端的な例だからだ。京子はそこから、一部の被害者がいることでかえって平和が保たれれるのならそれを罪としない組織、である実家を思い出すのだろう。 しかし自分の個人性と組織とを、白と黒のように決して混ざり合って存在しえないものと捉えるのにはやはり無理がある。京子の望みは、坂口が一審の死刑判決を控訴せず自分も後追い自殺をすることだが、それは最高刑を下されるほど組織の意に沿わない存在になることが自分の個人性を確立した証拠になると思っているからで、つまり京子は思想がアンチだけでは自立できないことに気付いていない。坂口が京子の意に反して控訴したのは彼女の後追い自殺を心配してのことだが、京子にとってそれは坂口が自分の分身でなくなったこと、つまり組織側の人間になってしまったことであり、だから彼女は自分の内的平和を損った坂口を私的に死刑にする。 そしてそれはつまり、彼女が、自分の分身を失ったことで自分の怒りと一人きりで向き合うことの必要に迫られ、その恐怖に本当に追いつめられたということなのだ。京子は怒らずに去ることを繰り返してきた。実家からも職場からも、今や生きることからも。坂口を刺し殺した後、死刑になりたい京子は一人殺しただけでは死刑にならないからと永山基準を皮肉って弁護士の長谷川(仲村トオル)にもナイフを振り下ろすが、ナイフにツバなどの血のりの滑り止めが付いなかったので失敗する。つまり京子が長谷川を殺せなかったのは単にナイフの選択ミスであり、殺意が揺らいだせいではないので、次の展開としては撲殺や絞殺にきりかえてもおかしくないわけだが、実際に京子が長谷川に行なったのは恋人にするような情熱的なキスだった。 それは京子自身にもなぜそうするのか分からないキスであり、長谷川を愛しているのかと訊けば言下に否定されるだろう。しかしこれは今鳴いておかなければもうだめだと我知らず虫が鳴くように、今誰かと愛し合っておかなければと切迫するほど彼女が自分の死の訪れをすぐそばに感じているということなのだ。彼女にとって死とは自我崩壊であり、そうなる前に死刑になったほうがましだと思っている。当の対象を思い浮かべてストレートに自分の怒りを感じ切るということをこれほどまでに恐れる必要性を感じる人生は、当然瀕死の重病のように感じられるだろう。彼女は自分に助けを差し伸べようとしてくる長谷川に対して、そうした好意こそが彼が彼女の状態を少しも理解していない証拠なのだというふうに、彼を烈しく拒絶する。 皮肉なのは本来京子を危険から守るためにある恐怖感が、結局当の怒りの対象にとって都合のいいように働いていることだ。京子は爆発しそうな怒りを抱えているのに、その対象と意識の上でさえ向き合うのを避け、その対象以外のものにぶつかり自滅していく。無力で不自由な子供時代には必要だった強い恐怖感が、大人になり危険が過ぎ去った今でも自然消滅せず、同じかそれ以上の大きさで彼女を支配し続けている。 いずれにせよそうした類の感情からは、それをありのままに感じ切らないかぎり解放されない。京子はその過程で予想通り死のそばを通らざるをえないかもしれない。しかし彼女が彼女の生を実感をもって生きられるようになるには、本来のありのままの感情の動きを取り戻す必要がある。それに京子は刑務所に入りつつも、結局他者からしてもらいたいことを引き出したことになる。京子に好意を持ち彼女を理解しようと熱心な長谷川だ。たとえそれが京子が坂口に向けたような、相手の個人性を理解しないまま自分の分身と思い込んでいるような情熱でも、坂口がそれを察した上で京子のプロポーズに応じたように、そうした優しさに心開かれていく部分を、彼女もまた孤独のうちに受け容れていくかもしれない。 (2009/06/12) |
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