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上野良治 Ueno Yoshiharu 

  ■MF: ボランチ,OH
  ■1973年 4月21日生まれ   181cm 70kg  A型
  ■埼玉県 浦和市(現さいたま市)出身
  ■上木崎小→ 大原中→ 武南高→ 早稲田大

リーグ カップ 天皇杯
1994 横浜M 15 1 0 0 3 0
1995 5 2 - - 2 0
1996 16 0 6 0 1 0
1997 30 2 5 1 2 0
1998 32 3 4 0 1 0
1999 横浜FM 28 3 5 1 3 0
2000 23 1 6 1 3 0
2001 25 4 6 1 1 0
2002 30 2 6 0 2 0
2003 4 0 2 0 3 0
2004 22 3 6 0 0 0
マリノス通算 230 21 46 4 21 0
Jリーグ 通算 230 21 46 4 21 0
  ■Jリーグ初出場:1994 1st 12節 4/24 平塚戦 (三ツ沢)
  ■Jリーグ初得点:1994 2nd 12節 9/21 平塚戦 (三ツ沢)
  
  ■代表歴:国際Aマッチ 1試合 0得点
1990 U-19日本代表 アジアユース
2000 日本代表 ハッサン2世杯



華麗で優雅な天才肌。 誇り高き上野良治
高校時代は「武南に上野あり」と謳われた天才ゲームメーカーだったが、入団から数年は日の目を見なかった。アスカルゴルタによってボランチへコンバートされ、その視野の広さや展開力、ミドルシュートの能力が活かされて開花しチームの中心選手に。 スピードと運動量にやや難があるが、高さがありヘディング・フィジカル共に強く、急所を突くパスセンスとキック精度は往年の輝きを失っていない。昨季は2列目以降から積極的に飛び出すなどリスクチャレンジする姿を見せ、再び新境地を開き出場機会を取り戻した。 内面を晒す事を極度に嫌い、クールに見えるが気性には激しさも持ち合わせる。マスコミ嫌いで露出が少ない。


小学2年の時に、兄の影響でサッカーを始める。6年の時にFC浦和(浦和選抜チーム)に誘われるが辞退。大原中学では3年のときに全国大会で優勝。決勝の東海第一中戦では得意のミドルシュートを決めている。当時のポジションは攻撃的MF。傑出したパスセンスで天才司令塔として名を馳せる。 その後名門・武南高校に入学。1年から10番を付けてレギュラーとしてプレイし、3度選手権に出場。1年の時は3回戦で優勝候補の清水東から決勝ゴールを決めるなどの活躍を見せ準優勝。2年はベスト4、3年の時はベスト8へチームを牽引。当時低迷していたサッカー王国浦和の復興に高校時代の上野が果たした役割は小さくなく、今でも上野の出場機会が減ると浦和のオールドファンからラブコールが起こる所以である。

高校卒業前にはJリーグのクラブだけでなくACミランのプリマヴェーラ(2軍)からオファーを受けるも早稲田大への進学を選択。1年からレギュラーとして活躍し大学選手権で準優勝。バルセロナ五輪最終予選の代表候補にも選出される。 しかし2年の時に監督の構想から外れ全く試合に使われなくなり、結局サッカー部を退部。

1994年、大学を休学し横浜マリノスに入団。1年目から15試合に出場し1得点を記録したが、翌95年は怪我もあり出場はわずか5試合。96年も常にベンチ入りはするもののフル出場は3試合。早野監督の下ではレギュラー獲得には至らなかった。世界的に足元でボールを受けてからスルーパスを狙う典型的なゲームメーカーが姿を消していった時代に、上野のプレイスタイルはあまりにクラシカルだった。

97年に固定番号制が導入されると6番を与えられ、アスカルゴルタ新監督の下ボランチにコンバート。プレッシャーの少ない位置で自慢の展開力を活かせるようになりレギュラーに定着。当初は懸念された守備も無難にこなした。その後のデラクルス体制でもレギュラーとして中盤に君臨。配球役・バランサーとしての地位を確立。良い意味でも悪い意味でも、後に岡田監督が就任するまで続く 「華麗にパスは繋ぐが積極性に欠けて勝ちきれない」 マリノスの象徴的な中心選手となる。

1999年にはクラブからキャプテンに任命。休学を続けていた大学も中退。レギュラーDFの欠場が重なった2ndステージの試合では初めてリベロも務めた。

2000年も引き続きキャプテンを務め、1stステージに優勝。何度か候補に選ばれるもなかなか縁のなかったA代表でも、6月のハッサン2世杯ジャマイカ戦で代表初キャップを記録。名波浩とボランチを組んだがハーフタイムに奥と交代。現在に至るまで上野のA代表出場記録はこのモロッコでの45分間だけである。

2001年からはキャプテンは小村に譲るも、ラザロニ体制でも完全なレギュラー。攻撃の中心に成長した中村俊輔をサポートするため、遠藤や奥と低い位置でのセイフティな捌き役に徹するシーンが目立ったが、時折見せるスルーパスやミドルシュートは効果的だった。2002年にはリーグ戦全試合出場を果たしている。

2003年は岡田監督の就任により、シーズン開幕直前に2年目でCBからコンバートされたばかりの那須にポジションを奪われる。以降もベンチに座る日々が続き、更に5月には練習中に負傷しスポーツヘルニアで長期離脱。2ndステージ最終節の磐田戦に途中出場で復帰するも、リーグ戦出場わずか4試合、フル出場はゼロ、出場時間たった155分とプロ10年目で最低の出場機会しか得られなかった。 シーズン終了後には 「他クラブからのオファーがあれば伝えて欲しい」 とクラブに移籍検討も示唆。岡田監督からも移籍を承認され、2月には神戸から打診もあったが結局残留を選択した。

2004年は序盤の過密日程もあり、2月のA3杯から出場機会を得る。リーグ開幕戦はベンチで終わったが遠藤の負傷、那須や柳想鉄の代表招集もあり再び出場機会が巡ってきた。 その中で昨季までのリスクを嫌い中盤の底でバランサーと配球役に徹するスタイルを捨て、積極的にFWを追い越して前線のスペースに走りこみ自らがレシーバーとなるなど、岡田監督の要求するスタイルに適応して見せた。

2日前に父を亡くした名古屋戦にも出場を直訴、試合終盤にはFWを追い越して相手DFにチェックをかける気迫のプレイを見せた。続く神戸戦でリーグ戦2年振りの得点、次の広島戦でも遠藤のクロスから頭脳的なループ・ヘッドを決めて2試合連続ゴール。 奥が不在の1stステージ終盤はトップ下も務め3ステージ連覇に大きく貢献。岡田監督も 「1stステージのMVPは上野」 と賛辞を惜しまなかった。 2ndステージは7節のC大阪戦で痛めた右膝の打撲が長引き5試合を欠場したが、チャンピオンシップには遠藤や柳想鉄が負傷離脱する中、ボランチとして2試合共にフル出場。老獪なポジショニングで浦和攻撃陣にスペースを与えず、PK戦でも冷静にその任を果たした。


□チームオフィシャル名鑑
  http://www.so-net.ne.jp/f-marinos/player/6.html

■オフィシャル Player's Page 2000
  http://www.so-net.ne.jp/f-marinos/special/playerspage/06.htm
■オフィシャル スペシャル 2000
  http://www.so-net.ne.jp/f-marinos/special/07/main.htm
■オフィシャル Player of the week 1999.04.22
  http://www.marinos.co.jp/PLAYERS/player_0422.html
■オフィシャル Player of the week 1999.12.02
  http://www.marinos.co.jp/PLAYERS/player_1202.html
■サッカーマガジン インタビュー 2000.12
  http://www.soccer-m.ne.jp/interview/793/main_793.htm
■PLAYER'S FILE @JPFA 2004.12.10
  http://j-leaguers.net/special/pickup/file038.html

■ファンサイト
  light
  http://www5d.biglobe.ne.jp/~shun_net/index_u.html
  上野良治のことを想う会
  http://www6.ocn.ne.jp/~boogie/yoshiharu.htm



上野良治コール
♪ア・レ! ウ・エ・ノ・ヨシハル!(×2) 上野!(×4)



データは2005年1月2日現在
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