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岡田武史監督語録
■ 監督という仕事
監督の仕事というのは、正解のわからないことが多いですね。正解のない答えを求めて、考え続けるわけです。そして、現実の結果に対して責任を負う。それが、監督の仕事ですね。勝利という結果が出ればうれしいですけど、全てはプロセスが勝負なんです。スポーツとは、そういうものじゃないでしょうか。
監督業について、1999年
思い通りにならない事ばかりだが、たまに、思い通りになるところが忘れられない。
監督業について、1999年
選手交代であれ、戦い方であれ、メンバーであれ、監督のいちばん重要なことというと、 「決断」 することである。そして、その決断が正しいか間違っているかなど、神様以外誰にもわからない。ひとりで全責任を負って 「決断」 するということは、本当に孤独な仕事である。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
自分達の理想的なサッカーのイメージをもつことは大切だが、チームづくりにおける理想のサッカーとは、今いるメンバーの力をうまく組合せ最大限のパフォーマンスを引き出すことであると言えるかもしれない。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
監督とコーチの立場の違いは、コーチと選手との差より大きい。
1997年
加茂さんからは 「自分だったらどうするかいつも考えていろ、意見を言ってくれ」 と言われていました。ただ、コーチの仕事は辛い側面もあるけど、基本的にはアシスタントだから気楽なんです。その代わり、やり甲斐はあまり大きくない。
代表コーチ時代を振り返り、1998年
監督は主役じゃないし、マジックも起こせないんですよ。そこをわきまえていないと。だからオリンピックで金メダルもらっても表彰台に上がれないし、ワールドカップで優勝してもトロフィーをもらいに行けない。ピッチで闘う選手が主役なんですよ。
佐山一郎のインタビューで、1998年
いい監督になりたいと思ったら駄目なんです。あくまでも 「いい選手を育てたい」 であり、 「いいチームを作りたい」 なんですよ。
佐山一郎のインタビューで、1998年
名監督と呼ばれる人は、すべて最悪の場合を考えてますね。 「最悪の場合にどうするか」 を考える。どうせ考えた通りにはならないんだけど、考えないで最初から 「えい、やあ!」 と思い切ってやってしまう人はダメ。それに最後まで考え続けて悩む人もダメ。最悪のケースを考え切って、なお且つどこかでその考えを振り切って、 「しょうがない、これで行こう」 と思い切る。そういう思考と決断のバランスのいい人が名監督じゃないかと考えています。
名監督の条件について問われて、2002年
それに名監督というのは 「運」 が大事。運の悪い名監督なんて、聞いたことがない。
名監督の条件について問われて、2002年
僕らの世界は、昔と未来の話はないんですよ。
もう一度代表監督になるつもりはないかと問われて、2001年
監督をしている時に 「やっていて楽しいな」 と思うことはそれほど多くはなかった。しかし、辞めるとやりたくなる。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
あの体中がゾクゾクするような興奮というか、緊張感というか、そういうものは、 日常生活では味わえません。少なくとも、僕のサッカー以外の日常生活では味わえないものですね。 日本代表チームの監督を辞めたあとは、静かに暮らしたいとも思ったのですが、ダメでした。あの味は忘れられない。
インタビューで、2003年
生まれ変わることができるんなら、サッカーの選手をもう一度やりたいですよ。そして、ドイツかイタリアで活躍したい。監督なんかより、自分で体を動かせる選手のほうがおもしろいですよ。
インタビューで、1999年
監督や指導者というのは、宗教にはまる人が多いでしょ。助けが欲しいんですよ、みんな。僕も哲学書なんか読むけど、読むと楽になるんです。人生なんて、人間なんて、そもそもたいしたことがない。ましてやサッカーの試合に負けたことなんて… と思えて楽になる。けど、これは逃げ。やっぱり逃げちゃいけない。
監督業のプレッシャーについて、2002年
ドイツで学んだ強さというのは、 「日本的な情を前面に出したら選手と上手くやれるわけがない。指導者と選手には明確な立場の違いがある。それを実行するには大変な覚悟がいる」 という風な事ですね。多数決原理を必要としない代わりに責任は重いし怖い面も多分にある。だけどその分面白いし、やり甲斐もあるという事なんじゃないかな。
佐山一郎のインタビューで、1998年
通常、監督は選手からよく言われることのほうが少ない。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
監督なんて、自己中心的なものである。特に若いころは、マスコミにこの選手を使えなどと言われると、かえって使いたくなくなる程度のことはある。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
勝つために、当然監督は選手を取捨選択しなければならない。選手にとってよい監督とは、自分を使ってくれる監督であろう。しかし、監督は11人しか選手を使えない。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
人間、誰でも、みなにいい人だと言われたいし、好かれたいものだが、この仕事はそう思ったらできない。外国人監督なら自分の国に帰ってしまえば終わりだが、日本人監督はそうはいかない。この狭い日本で生きていくことを考えると 「いい人」 であったほうが楽かもしれない。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
私も若手のチームを見ている時、クビにした選手の親から電話で怒鳴られたこともあった。代表監督の時は、視察でJリーグを見に行き、スタジアムの関係者入り口で自分をジッと睨んでいる女性がいた。見覚えのない人だと思って関係者に聞いてみると、私が代表から外した選手の奥さんだったこともある。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
私は、自分が浪花節的で選手への愛情に流されてしまいそうになる弱さがあることを知っている。だから、あえて選手とは一線を引くようにしている。選手と近しく親しい関係でありながら、冷徹にバッサリと選手を切れるならいいのだろうけど、自分にはできない。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
札幌でも3年間同じ選手達とやり、3年目には選手に情が移ってしまい決断が鈍りはじめていた。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
今年チームにいた33人の選手の誰ひとりが欠けても優勝はなかった。なのに彼らのおかげで優勝できた選手を切るんだから…。そりゃ鬼みたいなもんですよ。
選手の契約更改期に、2003年
同じポジションで2人がケガをする可能性は少ないってメディアは言ってたけど、じゃあもし万が一にも起きたらどうするんだって。メディアは 「岡ちゃん、ピンチ」 で済むかもしれない。でも俺はそれじゃあ済まない。
フランスで3人を代表メンバーから落とした事について、1998年
日本のサッカーを良くしようと頑張っても、負ければ犯罪者扱いに近いですから。
W杯本大会を前に、1998年
正直言えば、指導者としての深い楽しみそれ自体は、寄せ集めということが前提になる代表チームにはあまりないんです。
1998年
最低2年は同じ方法で同じ指導者がやらないと。日本は監督がコロコロ代わり、その継続性がなかった。
代表でのチーム作りについて語り、2000年
わからないですね。鹿島でチームを作ったといっても、練習から試合までのすべてに責任を持ってやる監督と、総監督という肩書きでは、立場が違いますからね。
日本代表監督に就任が決まったジーコについて問われ、2002年
■ 指導・育成論
自分の理想は、選手達が自分達のいいところをだして、生き生きと躍動するようなチーム。ミスを恐れて、こわごわサッカーしてるとか、淡々と自分のプレーをしてるとか、そういうのは好きじゃない。

じゃあ全員が自分の好きなことをやらせてもらえるかというのは、それは無理。できるだけその組合せの中で、チームのために合わせてもらわなければいけない事がでてくるわけだから、チームのために生き生きしてもらうのはすごく難しいことなんだけど、是非そういうチームにしてみたい。
開幕前に、2003年
現状と同じでは、進歩はない。
完全優勝を達成して来季に向け、2003年
イマジネーションとディシプリンのバランスを取るのが監督だと思っています。守備はディシプリンを強くし、攻撃は個人のイマジネーションをある程度尊重すべき。
エメ・ジャケ氏との対談の中で、2000年
何でもそうなんだけど、マスコミの人ってね、右か左かってハッキリさせたがる。もっと完璧に組織立ってとか、今度はブラジルのようにもっと自由にとか。ある程度自由にさせて、ある程度管理して、いいところを利用するように考えればいいわけでね。要は、バランス感覚なんですよ。
チームにおける自由と規律について、2003年
練習で選手に聞かれたときによく言うのは、 「共通意識として持って欲しい俺の考えているやり方はある。でもその中で最後はおまえが判断するんだよ」 と。だからシュート練習するときにも必ずもう1人無駄走りさせている。 「シュートなのか」 「パスなのか」 という選択肢をとにかく付けるんです。
代表での指導について、1998年
自分たちで勝手にその場その場で最良の判断を素早くできるから、ドイツ代表チームは3日前にパッと集まってもかなりのことができるわけでね。代表チームというのは本来そうした基礎的判断力の問題を解決するような場じゃないんですよ。
佐山一郎のインタビューで、1998年
自分の適性というのは、徐々にわかってくるんですよ。教えてあげるというより、本人に適したポジションで使ってあげて、いいプレイができたら本人も気持ちがいい。その気持ちよさから自然に気づいてくる。
選手の適正指導について、2003年
僕も札幌に行ったときに自分のサッカーを、練習して型に嵌めようとしていた。選手に対して、できない部分を教えてやるのが指導者だと思っていた。攻撃はできるんだけど守備が出来ない奴に、居残り練習をやって、ビデオを作って、一生懸命教えても結局できないんですよ。 ところが将来選手としてはダメになるかも分からないけど、攻撃部分だけを利用させてもらって使う。次、負けたら俺もクビっていう状況だったからね。その代わり後ろにディフェンスの強いヤツを置いておく。結果、その方が選手が伸びるんですよ。

よく考えてみると毎日グラウンドに来て欠点ばかり指摘され、 「ああだろう、こうだろう」 と言われて蹴っているのと、いいことばっかり言って使ってもらってるのとじゃ、当然そっちの方が伸びる。冷静に考えれば分かるんですよ。僕の中で 「教えてやらないといけない、それがいい監督だ」 というのがあってね。
札幌時代の指導を振り返って、2003年
ある選手を 「このポジションには合っていない」 と判断したとする。ところがもう一つ調子が出ない。 「ではもういっぺん見てみよう」 と再度やってみる。これをやり始めると、泥沼にはまっていく。 「1回で見極めていいのか」 という考え方もあるだろう。ただそれはまさしく感覚的な作業であり、選手を見極めるのはその感覚だと私は信じている。
選手の適正見極めについて、2003年
選手はいい選手になりたいと切望していなければ絶対いいプレイヤーになれない。休みの日まで正しい栄養、積極的休息と拘束され続けるから高い給料が取れるんです。
佐山一郎のインタビューで、1998年
プロに変わったときにみんな、午前中会社へ行かないでたくさんお金もらえると思ったわけですよ。大きな勘違いをしたわけです。そんなバカな事はなくって、たくさんお金をもらえるからもっと拘束されるんだと。同世代のやつと同じようにカラオケに行きたかったら、もうサラリーマンやれと。プロ辞めろと。休まなきゃいけない。休むのが仕事なんだと。

そういうことを僕はコーチとして若い世代にJリーグができた1年目、2年目言い続けたわけですよ。そこで良質の外国人指導者が日本へ来て、ジーコなんかが実践してみせて、また強制して、選手にプレーヤーとしてのベースというか、精神的なプロフェッショナルのベースができたんですよね。
野村克也監督との対談で、1998年
「優勝だ、優勝だ」 というプレッシャーがいくらあったって、選手にできることは、自己管理をしっかりやって、練習に集中して、試合でベストを尽くすことだけ。
開幕前に、2003年
今、日本には才能だけなら昔より断然上の選手が、いっぱいいるんですよ。ところが、取り組む姿勢に物足りなさを感じてじれったい。あれだけ技術に恵まれた若い世代が本当に必死になってファイトできるようになったら、日本のサッカーはもっと強くなりますよ。
佐山一郎のインタビューで、1998年
地球が生まれて何億年、人間の歴史はわずか5000年、日本民族の歴史は3000年足らず、人生は70〜80年。ワールドカップと言えどサッカーの試合はたった90分、大したことはない。しかし、たった90分だからこそ、全力を尽くさなければならない。
W杯フランス大会の初戦、アルゼンチン戦の前のミーティングで、井上靖の詩を引用して、1998年
今の自分の力を信じろと。急に上手くならない。今の自分の力でやってダメだったらしようがないじゃないかと。今の味方の力も信じろと。なんであいつやってくれないんだとかいっても、お前その仲間とやるしかないんだと。イタリア代表選手を呼んでくるわけにいかないんだ。だからその仲間を信じて、あとグラウンドで100%戦って、ダメだったらしようがねえじゃねえか。結果を恐れる必要ないと。そういう言い方をしていつも選手を送り出すんですけどね。
W杯予選を振り返って、1998年
チームワークとは別に勝つために作るものだとは思わない。勝つためにチーム作りをしてきた 「結果」 だと思う。 「俺、あいつとは気が合わないけれど、あいつにパスを回しておけばいい仕事をするから回そう」 みたいな。それは、お互いに気が合うから、仲がいいから、チームワークが出来て勝てるということではなくて、お互いにとっていいプレーをするから認め合う。そして 「勝利」 という結果が伴う。そうするうちにまとまりも出てくるという流れなんだ。
平尾誠二との対談で、2003年
僕はね、細かくいちいちコーンを回れとは言わないですよ。回ったらほめる。冗談めかして注意する。すると、だんだん感じ取って変わってくる。結局、こうすればこうなるなんて正解はない。チームとは生き物です。いちいちコーン回れと怒鳴っても必ずしもうまくいかない。かといって放任すれば、ずっとそのままだ。ただ勝負の分かれ目は、ほんの小さなことだとは思うんでね。そこは、キチッとできるようになってきた。
完全優勝後のインタビューで、2003年
練習で100%の力を出さない選手は使わない。俺は監督だから11人しか使えない。使われなければやっていられないという選手は出ていってくれ。しかし力を出し切り、俺を嫌いでも、向かってくる選手を俺は見捨てない。1年間、面倒を見る。1試合も出られなくても、上手くなったと評価させる自信はある。
開幕前のミーティングで、2003年
試合に出ないと伸びないという言葉があるが、そうは言い切れない。練習で力を付けないと試合に出る事、試合で活躍する事などはできないのだ。
完全優勝達成記者会見で、2003年
起用法の不満を誰かに言うのは勝手だけど、フラフラ流されるのはよくない。一個人として冷静に分析して、それが俺と合ってなくてもかまわない。お互いそれは話し合えばいい事で、逆らう事でも何でもない、と。僕は聞く耳を持っています。
1998年
「自分はこういうサッカーがしたい」 などと、選手から言ってくることもよくあるし、選手と意見が食い違うこともある。まず、よく選手の考えを聞き、こちらの考えを説明する。その後は、ドライに 「サッカーに正解はない。君の言っていることも間違いではないかもしれないが、私は監督として全責任をもってこういうやり方をする。君は能力があると思っているからメンバーに入れているが、どうしても納得できない、我慢できないというのならしょうがない。残念だけどあきらめるから、メンバーから出ていってくれ。自分で決めてくれ」 というスタンスで絶対に対等に喧嘩はしないようにしてきている。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
お前、このままじゃ本当にアカンぞ。サッカーが好きなら、とりあえずやれるだけのことをやれ。それでだめなら、移籍を考えればいいじゃないか
レギュラーと五輪代表から外れ腐っていた中西永輔に、1994年頃
僕は監督就任のときに、現場の事に関してはすべて僕にまかせてくれといった。選手が悩んでいるようだからフロントの人間が相談に乗るとか、メシを食わせるとか、頑張ってるからプレゼントするとか、そういうことは一切やめてくれと。そういうのは選手の逃げ道になるし、甘さにつながるから。
マリノスに就任して開幕前に、2003年
選手というのは、監督の一挙手一投足をよく見ているものである。私がスッキリした気分で行ったその日の練習は、昨日まで暗く元気のなかった選手達が生き生きと積極的なプレーをしてくれ、見違えるように素晴らしいトレーニングになった。
自力突破が消えたUAE戦後の練習を振り返って、2002年
指導者としての僕の理念は、「信賞必罰と公平」、これに尽きます。良いときは誉めて悪いときは叱る。それを、誰に対してもフェアに行う。代表を預かったときも同じです。どんな選手でも、監督が自分をどう考えているか、実に敏感に察知します。代表などは特に人生がかかっていますからね。そんな状況の中では、自分をさらけだして正面からぶつかり合うしかないのです。チームの全員が監督が大好きで深く信頼している、なんてことはあるわけがない。選手同士だって、合わない者がいる。当たり前です。しかしいつも言うのは、グラウンドに立ったらプロの仕事をしろ、ということ。仕事の場で個人の利己的な感情を出したら、完全に失格です。
インタビューで指導方針を語り、2001年
僕は時間にもうるさいです。ミーティングに遅れてニヤニヤしている若い選手に 「みなに一言謝れ、どうして一人の人間として謝れない」 と言ったことがあります。
佐山一郎のインタビューで、1998年
今日、エメルソンが遅れてきた。普通なら俺はメンバーに入れない。しかし、明日のゲームは非常に大切なゲームで勝たねばならない試合だ。そして、そのためにはエメルソンの力が必要だと思う。だから俺が全責任を負ってメンバーに入れる。もし不満や意見があったら言いに来てくれ。
札幌監督時代、J1昇格をかけた試合の前日のミーティングで、2000年
特別なマジックを使っているわけではありません。まぁ、おだてたり叱ったり、間接的に褒めたりと、それなりのノウハウはありますが。
ウィルやエメルソンら問題児の扱い方を問われて、2000年
僕はスタッフの中に通訳を入れるのが嫌なんですよ。スタッフ内の会話が通訳から必ず選手に漏れるから。
NHKの英会話番組中で、2002年
学生、社会人に限らず、練習や試合中にいまだに 「がんばろうぜい!」 って大声出すのは、日本と韓国ぐらいでしょ。感情的に盛り上がるのはいいけど、じゃあ、勝つために何をすればいいんだと冷静に論理的に考えるチームは凄く少ない。
W杯本大会を前に予選を振り返って、1998年
スポーツにおいて根性とか精神とかいうのは古いと言われていますが、私が監督に就任して初めに選手に言ったのは、戦術でも戦略でもなく精神論でした。
W杯終了後、1998年
ウズベキスタン戦の前は、もうファウルも取らない厳しい紅白ゲームをやってね。オフサイドでも僕が笛吹かないもんだから、選手は 「ファウルなのに何で?」と言いました。 「そんなもん本番の試合でも取らない!」 と突っぱねてるうちに、よくしたもので、だんだん激しい当たりにも倒れなくなりましたよ。
W杯予選を振り返って、1998年
もともと、先輩・後輩とかあんまり好きじゃなくてね。でもそこにどっぷり入ると、どうしようもない快感なんだ。そのクセ頭の中じゃ 「俺は違うんだ」 と突っ張っていて、もっとロジックを大切にしなくてはと。一時期、指導者になりたてのころロジックばかりに走ったんです。ジェフのサテライトの監督で。すると全然選手が育ってこなかった。
完全優勝後のインタビューで、2003年
■ 戦術・指揮
ワールドカップだから何か変えなきゃとかね、ないんです。僕は同じサッカーだと思ってるんですよ。宇宙人とやるわけじゃないんですよ。人間がやるわけです。相手はみんな強いですよ、確かに。 だけどサッカーにマジックとかスペシャル・タクティクスなんてないわけですよ。そしたら今のやろうとしてるコンセプトをより速く、より正確に、より広く、そういうところを追求していくしかないんです。
野村克也監督との対談で、1998年
当然、監督は前もってあらゆるシミュレーションをする。誰が怪我をしたとき、相手がこうきた時、点を取られた時、リードしている時など、あらゆる状況を考えるものだ。しかし、試合中にはその考えていた状況が複雑に入り交じってきて、シミュレーションどおりの交代ができることのほうがはるかに少ない。短時間に、状況を正確に分析し、ベストと思われる選択をしなければならない。そして、その選択に正解はない。もし、こうしていたらと後で言っても、結果は誰にもわからない。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
僕は、赤が出た瞬間にもう次のこと考えてましたから。ひとり替えなくてはならない。あと、2つしか手は使えない。たとえばFWを先に替えちゃって、そのまま 0−1 で進んで、さあ終盤に攻撃を仕掛けるときに手がありませんと。あの交替(ユキヒコ→下川)の時点で、次の手、最後の手のイメージはあった。勝負かけるときは大橋で、那須を下げて… といった。

ジュビロ相手に先制されて、10人になって、論理的には勝つ手が出てこない。もう絶対にあきらめないぞと自分に言い聞かせるほかなかった。そしたらジュビロが……。人間、守りに入ったら、このレベルの選手やチームでもこうなるのかと勉強になった。
磐田との最終節を振り返って、2003年
久保に1トップは合わない。私は開幕前の練習でそう判断していた。しかし1st 5節の市原戦で奥をサポート気味に置いた1トップを組んでしまった。失敗だった。「なんでこんなことをやったのか」という後悔が競りあがってきた。最初の見極めは大事にしなくてはならない。私はあらためて痛感した。
市原戦での起用ミスを振り返って、2003年
サッカーって理論的に物事を考えていかなくてはならないんだけど、例えば、こっちの確率は42%でこっちは45%、そういうことはないわけ。だから最後は思い切りがいる。その思い切る精度を高めるために、自分はもう考えて考え抜くんです。
増島みどりのインタビューで、1988年
サッカーなんて勝負事で相手も勝とうと必死でやっているのだから細かい原因なんて追究してもしょうがない。負ける事もある。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
サッカーというのは、日本が80の力で相手が100の力だとしても、日本が80そのまま出して戦えば、相手が100%、100出るということはほとんどないんです。片方が100%力を出したとき相手は60であり、70%しか出ないんですよ。
野村克也監督との対談で、1998年
経験がなく力のないチームは、少しうまくいかなくなると 「このままではまずいぞ! 早くなんとかしなくては」 とガタガタして自分達でリズムを崩していくことがよくある。

サッカーの試合では、よっぽどの力の差がない限り90分間片方のチームがゲームを支配し続けるということはまずない。必ず流れがあり、時間の長短はあれ、よい時間帯と悪い時間帯がくる。悪い時間帯の時は、へたに動かずじっと我慢をしているほうがいい時がある。そこでガタガタ動くと墓穴を掘ってしまうのである。
著書「蹴球日記」の中で、2002年
別に僕のサッカーは守備的ではない。そんな風に固定した考えは僕自身してないから。バックラインにしても、4バックか3バックかと聞かれたりするけど、もっと流動的ですよ。
2003年開幕前に
いまのサッカーは30%以上がカウンター・アタックなんですよ。
2003年
ボールホルダーが顔を上げた瞬間では遅い。その前に動き出す。このトレーニングは選手が嫌というほど重ねた。
シーズンを振り返り、2003年
ダイレクトがダメな場合の次のチョイスがポゼッションである。シーズンの後半にポゼッション・プレーに切り替えたが、そうしたステップを経ても原則は相手ゴールに早く迫るのが現代サッカーのアプローチだ。だからベースはダイレクトにある。
シーズンを振り返り、2003年
基本的には僕はある程度関与した方がいいと思うんです。例えば2002年W杯のブラジル。あれだけの選手がいたら、もう 「やってください」 って言える。

僕は攻撃に関しては、その一瞬一瞬に全選手が同じイメージを作れるようにする。例えば、皆がセンターフォワードに蹴るなと思ったら、「よし俺はこぼれ球にいこう」 「俺はどこに飛び出そう」 というように同じ絵を描く。そうなるためにある程度、基本的なモノを監督が関与して作っていくことが、僕は大事だと思う。

例えば2トップなんか、2人が開いているのは嫌いなんです。必ず1人がこうやったら、もう1人はこう動くというふうに基本的な約束事は作っておきたいと思う。
攻撃に監督はどれだけ関与するかを問われて、2002年
しっかり守っている状態を崩して点を奪うのは非常に難しい。だからこそ、1点をリードした後の試合運びが重要になる。
仙台に1-0で勝利して、2003年
オフェンスとディフェンスは相互関係。ウチのディフェンス陣に 「守りを固めろ、失点を減らせ」 といえばできるとは思う。だけど、攻撃しなければ点が取れない。リスクを冒し、ディフェンスを薄くしてでも攻撃にいかねばならない。
タレントの揃う守備陣について、2003年開幕前に
10人になってもトップの1人を引かせなかったのは、引いたらずっと守りっぱなしになってしまう可能性が大きかったためだ。
柳想鉄が退場して鹿島に逆転で敗れ、2003年
最初からガチガチの守りというのは少ないだろうけど、残り20分で同点、アウェーでの戦いとなると、徹底的に守ってくるチームも出てくる。だから優勝を狙うチームは、少々リスクを冒しても攻撃を試みる。そうなるとカウンターを受けやすくもなる…。だからウチの課題は、やっぱり点を取ることですね。
マリノス就任1年目の開幕前に、2003年
「セットプレーの練習は、次の試合のためにやるんじゃない。いつかこの積み重ねが出てくるんだ」と私はいつも選手達に言っている。 手を替え品を替え、何種類のパターンをやっても仕方がない。そんな声も聞く。断じてそんなことはない。試合では一度も使われていないパターンも確かにある。しかしただ1回だけ使って成功した1点が試合を決め、シーズンを決めることがある。
セットプレイの重要性を説き、2003年
弱いチームが強いチームにやられるときは、サイドを破られて、ああ、ヤバイ、というムードになってクロスからポンと決められてしまう。だけど人数だけは意外と揃っているものなんです。要するにサイドを破られても中でシュートする選手さえ押されていれば点は入らないんだ、と。
ダイナスティ杯で韓国に敗れた後のインタビューで、1998年
中5日は悪くないんです。いちばん中途半端でやりにくそうなのは中3日ぐらいです。短期間でやるのなら中1日でぽんぽんぽんとやってしまうほうがいいし、あけられるものなら、5日くらいあいてくれたほうがいい。個人的には中2日というのが好きじゃない。翌日クールダウンをやって、次の日どうするかが難しいんです。
佐山一郎のインタビューで、1998年
サッカーっていうのは論理性なんですよ。もう論理的に確率を考えていくわけですよ。ひらめきでね。例えば1対0で勝ってる。あと10分守りきりたい時、長い目で見て確率では、ディフェンスのうまい選手がいた方が高いですよね。それだけでいいんだったら、確率を考えるだけで論理的に素晴らしいサッカー、いいサッカーになるんです。

ところがそれだけじゃ勝負は勝てない。勝つ時は 「絶対負けないぞ!」 「目の前で取られたら取り返すぞ」 というような精神的なものが必要なんです。日本人というのは感情面が、えてして大きいんですよ。「頑張るぞ。 絶対フランスに行くぞ!」と言うだけで行けるなら、僕は1試合中怒鳴ってやる。でもそれだけでは駄目で、冷静に自分の役割をやらなきゃいけない。
早稲田大学の取材で、1998年
約束ごとばかりではガチガチになる。なにもかも自由にしたら時間がかかる。落ち着く場所へどちらからアプローチするかだけでね。ジーコのカリスマがあれば待ってもらえるでしょう。批判もしづらい。キャラクター、歴史の上に立って、その人間に合った方法でなければ。オシムみたいに怖い顔だから、ああいうサッカーもできるんで。
ジーコ日本代表について、2003年
前日までは「優勝、優勝と遠くを見てもしょうがない。目の前の試合でベストを尽くすしかない」と言ってきたが、当日になってからは優勝というプレッシャーも乗り越えなければ常勝チームにもなれないので、あえて優勝を意識させた。
1stステージ最終節神戸戦に勝利して、2003年
試合前、選手に話したのは知人の解体業者の話だ。「100m以上の煙突で作業をして降りてきて20m以下になると飛び降りたくなるが、事故が起きるのは、こういう高さの場所だ。しかし、きょうのゲームは最後の一段だ。勇気を持って飛び降りよう。しかし宙返りをする必要はない、しっかりとジャンプし着地するだけでいい」。こう言って、優勝を意識させた。
1stステージ優勝を決めた神戸戦後の会見で、2003
だったらここで座して死を待つのでなく、戦って散ろう。
1stステージ開幕戦磐田に2点リードを追いつかれたハーフタイムに、2003年
もうこの試合に関してはいい。俺が責任を取る。ただミスを怖がったり、おどおどしたりしないで生き生きとプレーして欲しい。
FC東京に前半だけで3失点を食らったハーフタイムに、2003年
このまま引き分けて優勝を逃すくらいなら、戦って優勝を逃したい。
2003年 1stステージ最終節神戸戦のハーフタイムに
自分達のサッカーをやるんだ。ジュビロどうのこうのではない。ただ、俺は思いっきりやれば負けてもいいと言っているんじゃない。お前らが対等に戦って勝てる力を付けていると思っているからこう言っているんだ。勝つために自分達のサッカーをやるんだ。
2003年 2ndステージ最終節磐田戦を前に
ミスを恐れるな。選手に何度言い聞かせたことだろう。「いいか、こいつにボールが渡ってからオーバーラップしたら遅いんだ。ボールが飛んでいる間に走り出せ。取られたらやられる。でもそれは勝負である以上、仕方がないことなんだ」 といった具合だ。
シーズンを振り返って、2003年
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