2011年4月24日(日)
「恐れることはない」
マタイによる福音書 28章1節〜20節


イースターの朝早く、女性たちは主イエスの遺体をめざして、墓へと向かいます。安息日の間は、死者を葬ることも禁じられていました。ですから、安息日に入る直前に葬られた主イエスの遺体に香油を塗るために、女性たちは、安息が明けるのを待ちかねて墓に来たのです。
 しかし、墓にいたのは、主イエスではなく天使でした。天使は「主イエスはここにはおられない」と告げます。
 女性たちは、死者の世界に主イエスを探していました。しかし、天使にうながされて、女性は、「墓」に背を向けたのです。その行く手は生命の世界に向か い、そこに主イエスがおられました。
 「恐れることはない」というのが、主イエスの第一声でした。あれほど主イエスを求め、主イエスの遺体にまっすぐ向かっていた女性たちが、主イエスが生 きておられるということを知って、「恐れ」をいだいたのです。  さらに、この知らせを聞いた十一弟子も、女性たちをなかなか信じませんでした。復活の主イエスに出会ってもなお、「疑う者もいた」、と記すほどに、信 じられなかったのです。イースターの始まりは、恐れであり、疑いでした。
 この恐れ、疑う弟子たちに、主イエスは、かねてからの約束のとおり、ガリラヤで現れてくださり、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたととも にいる」と言われました。
 主がともにおられる(インマヌエル)という言葉は、クリスマスのときによく聞かれる言葉です。この言葉は、主イエスがお生まれになる前、すでに旧約聖 書にも、しばしば記されています。主イエスが、天に昇られる前に、「あなたがたとともにいる」と言われたのは、旧約のときからの約束を主イエスが成し遂 げてくださった、ということであり、「神さまがともにいてくださる」という言葉が、聖書全体を貫いているということです。
 この言葉は、どんなときにも強い思いをもって神さまに従った者たちに語られたのではありませんでした。最も苦しいときに、十字架の主イエスのもとから 逃げ去り、約束が成し遂げられたときに及んでもなお、恐れと疑いの中に留まっている、弱い弟子たちに対して与えられています。
 わたしたちも、いま「主がともにいてくださる」という言葉のもとに招かれています。弱く逃げ腰なわたしたちは、ともにいてくださる主の確かさによっ て、恐れではなく喜びが、疑いではなく信仰が与えられます。そこから、真の生命への歩みが始まります。
 

戻る