萬福寺は、もと安福寺(819年〜1026年の間に建立された)と号し、石見国中州浦(現在の益田市中須町浜崎)にあって、 七堂伽藍をかねそなえた天台宗の大寺であった。
万寿3年(1026年)5月に石見地方を襲った大津波のため、一瞬にして堂塔ことごとく流失してしまった。 その後は、小庵を建て、わずかに寺号と法灯を守っていた。
元応1年(1319年)、
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「時宗」 宗 祖 本 尊 阿弥陀如来 称 名 南無阿弥陀仏 教 義 大慈悲の阿弥陀如来に 家業に勤め、励み、睦みあって、只今のひと時が充たされるなら、人の世は正しく生かされて、明るさを増し、皆ともに健やかに長寿を保つことになります。 浄土への道は、そこに開かれるとする教えです。 お 経 総本山 電話 0466-22-2063 FAX 0466-23-8243 |
応安7年(1374年)益田七尾城11代城主
寺領31石を与えて益田家の
「
益田越中守兼見は益田11代の城主で、石見地方を代表する武将であった。南北朝時代、周防(山口県)の大内弘世とともに長い戦乱の続いた益田地方を平定した。 永徳3年(1383年)将軍足利義満より益田本郷、弥冨村(遠田町)、乙吉村、土田村、岡見村、飯田郷、伊甘郷(浜田市国府町)、宅野別府(邇摩郡)の本領を安堵され、 益田氏の地域支配の骨格を作り、繁栄の基礎を築いた。 敬神、崇仏の念篤く、萬福寺を建立して、自らの菩提寺とし、さらに萬福寺鎮護の神として、天満宮を境内の西南に建造した。 時宗に深く帰依し、 明徳2年(1391年)死去。法名は 「益田兼見の寺領寄進証文」 奉寄進 道場萬福寺 石見国益田郷内田畠事 壱所 院内 東限瀧倉前江 南限河下大溝 西限小畠西端ヨリ岡畠之岸 北限片山大道 壱所 佐々倉 四至堺 任往古 壱所 津村名 加河成 壱所 手作参段 五郎四郎跡 右件所々奉寄進御道場也尽未来 際迄干子々孫々可守此旨仍寄進之状 如件 当寺開発 応安七年十一月廿六日 沙弥浄阿 花押 |
応永5年(1396年)、遊行12代尊観法親王(後村上天皇御猶子)が石見国御親化の際、当寺に御入住され、本堂・僧坊等に修理を加えさせられ、
当山の中興となられた。
この時以来、代々の住職は参内を許され、祈祷安全の
文明10年(1478年)、益田城主15代
「
日本水墨画の完成者と称される。我が国の美術史上において、常に最大級の賛辞をもって語られる人物である。ウィーンの世界平和評議会で、モーツァルト、ドストエフスキーらとともに「世界十大文化人」に選ばれた唯一の日本人である。 応永27年(1420年)備中赤浜(岡山県総社市)に生まれ、幼くして出家した。 永享3年(1431年)頃、京都 享徳3年(1454年)京都相国寺を出、山口 応仁元年(1467年)、山口から渡明、 翌年、北京大明宮礼部院中堂の壁に「龍図」を描く。 中国の大自然を己の目で確かめ、写生する一方、中国画家の作品をつぶさに研究し、文明元年(1469年)筑前に帰着した。 応仁の乱で大内氏の城下に続いていた内部抗争をさけて、しばらく筑紫に留まった。文明8年、大分に画房「 文明10年(1478年)頃、益田兼尭の招きにより益田を訪問、翌年、萬福寺、医光寺に石庭(国史跡及び名勝)を遺し、「益田兼尭像」 (益田雪舟の郷記念館蔵、国重要文化財)を描いた。 その後、美濃国、駿河国、京都、泉州堺を旅し、文明15年、益田に帰り、 文明18年、ライフワークとも言うべき「 文亀2年(1502年)再び益田を訪れ、東光寺(大喜庵)に入る。永正3年(1506年)東光寺で87歳の生涯を閉じた。 「四季山水図巻(山水長巻)」(毛利博物館)「秋冬山水図」(東京国立博物館)「破墨山水図」(東京国立博物館)「恵可断臂図」 (愛知、斎年寺)「天橋立図」(京都国立博物館)「山寺図」が国宝に指定されている。 また、雪舟作と伝えられる庭園で国指定されているもに、常栄寺(山口市)、萬福寺、医光寺(益田市)、常徳寺(山口県阿東町)、 亀石坊(福岡県田川郡添田町)の石庭がある。 |
慶応2年(1866年)、益田口戦争の際、当山は幕府軍福山、浜田両藩の陣営となった。兵火のために総門は焼失したが、幸いにも本堂・庫裏にその類は及ばなかった。
本堂の柱に残る鉄砲の弾跡は、この戦いの傷跡である。
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「長州征伐、益田口戦争」 慶応2年(1866年)6月16〜17日(新暦7月27〜28日) 元治元年(1864年)、 その後、長州藩では、高杉晋作・桂小五郎らの急進派が力を盛り返し、イギリスから蒸気船一艘、ミニエー銃(射程距離300m以上)4,300挺、 ゲベール銃(射程距離200m程度)3,000挺を買い入れ、軍備増強に努めた。この間に、薩長連合がひそかに成立した。 幕府は第2次長州征伐の軍を起こし、慶応2年6月5日をもって四境(石州口、芸州口、大島口、小倉口)より進撃し、戦端を開くよう各藩に命を下した。 大島口の戦 6月7日、幕府軍艦が大島を艦砲射撃し、戦端が開かれた。11日、幕府・松山藩兵が大島に上陸、長州兵は本土に撤退した。 15日、長州軍は大島に再上陸した。幕府兵・松山兵の上陸後の略奪暴行に怒った農民も幕軍を攻撃した。幕軍は大島から撤退した。 芸州口の戦 6月14日、和木村に向かう幕府軍先鋒の井伊家の軍勢は芸防国境の小瀬川を渡河していたとき、長州兵に攻撃され逃走した。大竹に着陣していた榊原家の軍勢も、 敗走してきた井伊勢に引きずられて一緒に逃げてしまった。 翌15日、長州軍は幕府軍の本拠地大野の攻略を目指して、小方に兵を進めた。幕府側は敗走する井伊・榊原の軍勢にかわって、紀州軍(ミニエー銃600挺と大砲2門を 装備していた。)が大野へ向かって広島を発した。 19日、長州軍は大野の入口にあたる四十八坂で紀州軍と戦闘を開始した。激戦は20日の未明まで続いたが、 決着がつかず、長州軍は小方まで撤退した。 25日、長州軍は大野攻略を計るが撃退さた。戦闘はしばらく膠着状態に陥った。 小倉口の戦 幕府は小倉城に本営を設置して九州諸藩の軍勢を集結させたが、薩摩藩と佐賀藩は出兵を拒否した。 6月17日、長州軍は小倉藩の台場を艦砲射撃し、田野浦、門司へ上陸して、砲台・弾薬庫を破壊し、民家に火を放って撤収した。 7月2日夜、長州の兵士5人が 翌朝、ひそかに門司に上陸していた長州兵が海岸と山麓にわかれて大里に進撃、海からも大里陣地を砲撃した。 小倉兵は赤松へ後退した。長州兵は夕刻海峡を渡って引揚げた。小倉沖から幕府軍艦3艦が出動したが、長州の3艦が応戦した。 富士山丸の大砲の砲身が破裂する事故が起きて、幕府の軍艦は後退した。 27日、長州軍は総攻撃を開始した。肥後藩兵(優秀な銃砲を装備した5千人が出兵していた。)は赤坂の前方、延命寺山に砲兵陣地を築き、長崎街道(門司と小倉を 結ぶ街道)を南下してくる長州軍を迎撃した。猛烈な撃ち合いになった。肥後藩兵は本営に援兵を要求したが、幕府兵も小倉藩兵も参戦しない。 軍艦も小倉沖から発砲するだけで、海峡に出て戦おうとしない。そのため、長州の船は下関と大里の間をひっきりなしに往復して兵と弾薬を補給できた。 孤立無援の肥後藩は軍勢を引揚げた。九州諸藩の兵も帰国した。幕府軍下関方面総督老中小笠原長行も本営を抜け出し、富士山丸に搭乗した。 8月1日富士山丸は長崎へ向かった。小倉藩は小倉城自焼を決定した。 その後、ゲリラ化した小倉兵は田川郡の 石州口の戦(益田口戦争)
福山1番手隊400人は6月6日に、2番手隊400人は10日に益田に到着した。浜田1ノ手隊400人は10日遠田村に、2ノ手隊500人は14日津田村に到着したが、益田に入り布陣したのは17日早朝であった。 大村益次郎が指揮する長州軍は先制攻撃に出た。津和野藩(亀井隠岐守 長州主力部隊1,500人は15日に横田村に本陣を置く。16日、育英隊、須佐隊はそれぞれ戸田、持石浦に上陸、陸路高津に着陣した。 16日正午、長州主力部隊は多田村 17日、横田を発した長州軍は、午前9時頃益田口へ来襲し、本陣を妙義寺に構えた。幕府軍(福山軍、浜田軍)は勝達寺を本陣とし、萬福寺と医光寺の間に布陣して 長州軍を迎え撃った。双方互角の撃合いで午後2時頃は大戦となったが、形勢は次第に長州に傾き、午後5時、長州の勝利に終わった。幕府の軍目付 浜田城自焼 幕府は6月25日に鳥取藩と松江藩に浜田藩応援のため参戦を命じた。石州口総督軍の先鋒隊長は紀州支藩の田部藩主安藤飛騨守 7月15日、大麻山の浜田兵は長州軍の大攻勢にあい、全員浜田城に引揚げた。 16日には紀州・福山・鳥取・松江兵の陣も崩された。恐怖で烏合の衆と化した紀州兵が浜田市街に入り乱れ大混乱になった。ために浜田 のみならず石州一円の民衆に嫌われ、食事も与えてもらえず、家にも泊めてもらえず、ほうほうの体で天領の地大森に向け逃走した。 安藤飛騨守は浜田城放棄を主張してその日のうちに退却した。代って指揮権を与えられた鳥取藩主も病気を口実に責任を逃れ、鳥取兵は17日に退却した。 同日、松江兵も軍艦に乗って帰国した。その船には浜田藩主妻子も同乗していた。福山兵も18日に帰国した。切羽詰った浜田藩兵は城と町を自焼し、 作州 長州勢は、逃げる紀州兵を追撃して大森代官領を占領した。 将軍家茂 将軍家茂は7月20日、大阪城で病死した。29日、慶喜に徳川宗家相続の勅許が下った。 慶喜は幕府軍の陣容を立て直し、芸州口で攻勢に転じる決意を固め、8月12日に大阪城を出発し、芸州に向かった。 7月28日、幕府軍の本隊が宮内村に進出して拠点を構えた。征長軍は廿日市を本拠にして、大野村を攻略しようとした。長州軍はこれを迎撃した。昼頃になると幕府軍艦と 紀州軍艦の砲撃も加わり、長州軍は苦戦したが日没まで持ちこたえた。幕府軍は宮内に引揚げた。 8月2日、幕府軍は、無抵抗で大野を通過し玖波に入り、陣地を構築したが夜に入ったので、町に火を放って撤退した。 8月6日夜半から、長州軍は大野・宮内の征長軍の根拠地に先制攻撃を仕掛けた。玖波・松原の2方面から大野を攻撃、明石から宮内を攻撃した。近畿地方に上陸した大型の 台風の影響で、大風雨の中の戦いになった。 玖波口では長州軍は風雨と夜陰にまぎれて、奇襲を仕掛けたが、幕府軍も頑強に応戦した。夜が明けて不利になった長州軍は正午に後退した。松原口を進んだ長州軍は 悪天候と悪路に阻まれ、道に迷って時機を失した。大野攻略は失敗に終わった。 明石口では、8月7日早朝、長州軍は征長軍本拠の宮内に攻め込んだ。暴風雨の中、見えない敵に撃たれ狼狽した幕府軍は宮内村を放棄して撤退した。 廿日市と大野の間にある宮内を占拠されたため、大野村の幕府兵は遊軍化してしまった。 8日、長州と密約をかわしていた広島藩は廿日市を守ると称して幕府軍と長州軍の間に割って入った。 戦意を失った慶喜は、14日に止戦の勅書を願い出た。21日、休戦の勅命が下った。 |
本堂は、応安7年(1374年)に建立されて以来、大小の修理を加えてきたが、破損がはなはだしくなってきたため、改築修理することになった。昭和8年着工、
昭和9年竣工。
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「重修銘板」 寺伝正和の頃中須浦に有りて、安福寺と号す。後応安7年、国主益田越中守兼見、之を今の地に移して萬福寺と呼び、伽藍を造営すとあれども、本堂の創立年代詳ならず。 然れども形式手法等より見るに鎌倉時代の遺物として、疑を容れざる優秀なる建造物なり。 その後天正14年8月瓦葺に、慶長13年7月瓦葺、寛永14年8月曽木葺、元禄17年3月曽木葺、明和7年2月又瓦に葺替へ、寛政6年3月にも修理あり。 以上数回に渉り、大小の修理を加へ、就中明和の大修理には、柱石を重ね盛土し、加ふるに屋内装置、建具等より、屋蓋に至るまで大変更を行いたるものの如し。 明治37年2月18日、国宝に指定せられしが、近時頽廃其極に達し、危態に頻したるを以って、昭和8年国庫の補助を得、島根県知事監督の下に、別記の如く工期を定め 根本的大修繕を施行する。 |