野々村美好その他             メール 

vor.1 野々村美好は1900年代に生まれる。生まれたときは父の話によると頭が湯飲みチヤノーゼ−をおこし、明日死ぬのではないかと思われることがたびたびあった。しかし、肌で体を温めるなど母の必死の努力で生き延びることができたが、母は母乳が出にくく、鯉の尾びれを乳房に貼ったり吸入器でお乳を出している様子を覚えている。母乳の代用品に牛乳を和知から取り寄せ飲ませてもらった。 うやん(上庵・本家)のオバや祖母が狭い台所の囲炉裏(方言:ユルリ)を囲んで乳を飲ませてもらった。その光景も不思議に覚えている。大切に育てられても、体が非常に弱く肺炎などに悩まされ、歩く頃のになると脱臼のためにビッコをひいた。そのため母は御霊験あらたかな寺院があると聞くとそこへ参り、良医がいると聞くとそこへ通った。幸い近隣に良医がおられそこへ頻繁に通った。
 三歳乃至四歳頃に灸(やいと)をすえに近江八幡の穴村へ行ったが、そのときの馬車に乗って夕日を見ている光景が今になっても鮮明に思い起こされる。また、京都の知恩院さんもお参りに行った。そのことも懐かしい。
 母は二十歳で私を生んで苦労の連続であったに違いない。とくに、経済的には貧困に喘いでいた。というのは、明治の中頃、代々続いた主屋、二つの倉、山や田畑、それに露地門までも三代続きの道楽(飲む、うつ、芸者あそび)で手放した。残された小屋(現在地)と少しの畑で生活を強いられていた。母が十九歳のとき二十九歳の養子を岩江戸の若江家よりもらった。父は建具職人で名人気質で通称コリ吉と云われていた。手間暇を掛け20年経ても少しも狂わない良い仕事をしたが、収入は限られていた。おまけに、夏は鮎掛け、秋は松茸とり、冬はマージャンと芝居、または歴史に懲り、経済的にもかなり苦しかった。
 父は男前で、母は美人であったが、私は・・・・。母は評判の働き者で、父と共に小作で少しの米づくりをした。そんな貧しさの中でビッコの体で稲束を背負い急な坂道をのぼったことは未だに忘れられない。四歳頃は好奇心強く珍宝を露出して鶏の反応をみたり、七歳頃は柱時計を分解し大目玉をくった。小学校へ七歳で入学したが肋膜炎で休学、落第
した。そのときから年齢を聞かれるのが今に至るもイヤである。小さい頃も含めて遊び人間で、釘さし、ビー玉、魚釣り、卓球はおもしろかった。ところで、大人になってから教育賞とか功労賞とかもらったことはあるが、小学校から大学までに賞を貰をもらった記憶はない。しかし、小学二年生のときに担任の浅原先生から後に京大に進み工学博士になる浅原友彦君と共に虫眼鏡を褒美に貰ったことがあった。これが何より嬉しい賞に値する。
 二つの虫眼鏡が2人の博士を生むことになり恩師の先見の目に驚ろかされる。(飛躍?) 続きはまたの機会に
○性格・・・・熱しやすく冷めやすい。ロマンチストで万年青年。恋多き男。 目下恋人募集中?
○坐右の銘・・・『目前心後』(世阿弥〈舞の奥義〉→古賀行義→小田義彦→野々村美好)
『その他』 結城しづかさんの欄の補足『木ぎれ、木の枝、葉っぱ』の玩具性の意味
 *具体物と記号(図や文字)の間にはイメージが仲立ちしますが、そのイメージを豊かにするのは完成されたオモチャより、木ぎれや木の実の方が有効である。その理由は間接性が高く自由度があるかである。 例えば一本の棒切れが、自動車にも飛行機にもなる。
            トップ頁へ