兵士の所持品その他2
金銭出納簿
下掲載の、金銭出納簿は歩兵第四十九聯隊第二中隊第二班所属の一般兵士の昭和9年1月から
昭和10年6月までの金銭出納が記録されている。
俸給(給料)は、ほぼ10日(10日、20日、30日払い)ごとに1円80銭もしくは1円85銭支給されており
1ヶ月平均5円45銭となっている。
雑食という、記入が数多くあり兵営の食事では足りなかったのか、それとも相当食いしん坊だったのか、
この他にも食べ物はおしるこ、コーヒー、パン、ラムネ、ソーダ水、ライスカレー、すし、そば、支那そば、だんご
なし、ぶどう、などたくさん記されているが当時は訓練等で腹が減るので皆こうであったのかもしれない。
また中央館、甲府館、等甲府市内の映画館に月3〜4回は通っていたようである。歩兵四十九聯隊の兵舎
は甲府駅の北口にあり映画館街はその反対の南口にあって距離はそれはど遠くはなかったのである。
あとは写真費用が多く使われておりどのような写真を撮ったのであろうか。
4月10日には軍旗際の会費50銭を徴収されており、軍旗際に際し一般兵より会費を徴収したのである。
この金銭出納簿は定期的に上官に検閲され現金と一緒に提出して上官は注意事項等を赤文字で記入した。
この兵士はいつも「毎日記入すべし、明瞭に」「貯金すべし」と書かれていてけっこうズボラな性格であったようである。
そして既婚であったようで、正月に家に帰った時に奥さんに5円をもらったりしている由が記入されている、まったく
このお金で本人は、映画を観たり、好きな食べ物を食べていたりしていたのである。
酒保との記入も多く出てくるが、酒保で何を購入したのかが不明であり残念である。

追記
この歩兵四十九聯隊は明治39年10月10日聯隊本部で火災をおこしてしまい、軍旗(聯隊旗)を焼失してしまった。
(このとき聯隊長と旗手は不在であったといわれているが火災を起こしても軍旗は一番先に非難させなければならない
のでありこの辺の対応も悪かったのであろう)
軍旗は聯隊の象徴であり、戦闘時にも命より大事にされ、紛失することは一大事でおお恥じであった。
軍旗ははじめて聯隊が編成された時だけに授与されるものであったが、聯隊長他が30日の謹慎処分を受けそのご
2ヶ月の後に特例で再度授与されたが不名誉な歴史を残す聯隊である。
再授与は12月14日であるがその後の軍旗際は上記のごとく軍旗際の会費徴収が4月10日であるので
4月に行われていたようであり最初に授与された明治38年4月15日に合わせているのであろう。(編成明治38年4月12日)
軍旗際は聯隊の軍旗が授与された日を記念日として聯隊の行う式典で兵営を一般開放し地元の人々も参加できる、
開放的なお祭りで大騒ぎをしたそうである。
尚私の両親は山梨県出身で、私の親戚縁者の多くも歩兵四十九聯隊にゆかりがありこれらの記述に他意はないことを
ご了承ねがいます。
(上記軍旗祭について調査したところ、再授与後12月25日になったが、12月は入営、除隊時期のうえ年末で多忙のため、
市民よりの要望もあって、大正10年より最初に授与された4月15日に戻ったとのことでした。)

昭和9年1月25日入営であろうか
その後すぐに「歩兵典範」「歩兵須知」「陣中要務令」
の軍隊参考書を購入している。
昭和10年1月1日に帰宅、1月3日に帰営してその間
に、家内より5円もらっている。
そして5日にはもう映画を観にいって、翌日もフジ館へ
映画を観にいってすしを食べている。
昭和10年の兵営生活はけっこう優雅であったのか。
当HP「兵士の所持品」に掲載の「クラブ練歯磨」
「煙草ほまれ」「ジンタン」も購入している。
「記念章」と記入されており欄外に秋季演習と
記されていることから、この演習の記念章なのかも
知れない。しかしこのような物も自費で購入しなければ
ならなかったのか。
上官による検閲後の注意書きが赤文字で記されている。

遺髪・爪
奉公袋の中には、遺髪、爪、が入れられることが多くあった、出征時に奉公袋の中に入れて入隊したのか
取り出して家族の元に置いていったのかは定かではないが、とりあえず兵士の所持品であるとして扱った。
応召及出征時の心得には「出征した以上遺骸は帰るものと思ってはいけないと家族に銘肝して
写真、毛髪、爪等を残しおくことを可とする」趣旨のことが書かれている。
また多くの戦死者をだしたノモンハン戦闘時の遺体も攻撃中止命令後、関東軍が遺体収容のための作戦
を願い出たが参謀本部は紛争解決を優先し却下、多くの兵士は草むす屍となった。
このような事から、遺髪や爪をあらかじめ用意することは、兵士達が戦地へ赴くときの心得であったのであろう。
封筒に入れられることも多かったがこれは晒し布で
袋を作り収められている。
寸法 4×4.5センチ
軍隊手牒より抜粋の「応召及出征時の心得」

一、二、三項からなり二項1番に応召時の処置として
書かれている。
これを読むと大日本帝国というものの非情さが
伝わってくる。
軍隊手牒にこの「応召及出征時の心得」が掲載される
ようになったのは、昭和15年頃からであったようである。