認 識 票
兵隊たちは、ひとり残らず、小判形をした
シンチュウ製の小さい札を持たされていた。
両はしの穴にヒモを通して、肩からじかに
はだにかけていた。札には部隊記号とその
兵隊番号が乱暴にうちこんであった。
戦死したとき、身元を確認するためのもので、
「認識票」というが
兵士たちは「靖国神社のキップ」といっていた。
しかし終戦後の復員局には膨大な「無名」と
書かれた遺骨があったという。名前が確認
できないため、家族のもとにも戻れない、
そして、この兵士たちは、靖国神社にも入れて
もらえないのだ。名ナシノミコトではまつることが
できないそうだ。「戦友に靖国神社で逢おうと
約束していたかもしれないのに」
シンチュウの認識票など、なんの役にも立ちは
しなかったのだ。
現在これらの戦没者は「国立千鳥が淵戦没者
墓苑」にまつられています。
一般兵士は部隊記号と番号表示であるが
将校は部隊名、階級、名前がうちこまれる。(右端上)
生き地獄といわれた、ニューギニアで戦った、一八軍四〇野戦道路隊所属の
西垣兵長の戦死が家族に伝えられたのは、昭和21年6月のことであった
この方の長男は、昭和42年ニューギニアへ父の遺骨収容を目的に赴き
ジャングルの中を歩き回った、そして三か月の後、父の戦死場所を知る
現地人を探し当て父の遺骨を掘り出した、そこには彼の父ということを
示す認識票も一緒にあったのである。
竹製認識票

太平洋戦争末期になると、軍用品も代用品が使われるように
なった。「布製弾薬盒」「鮫革の軍靴」、スフや混紡を使用の衣類等で
いよいよ日本の資源は枯渇してしまったのである。
しかしこの竹製認識票は金属の代用品として作られた物であろうか。
戦争末期には、認識票は部隊によっては配布されなかった場合もあったというが
これは表面に名前が掘り込んであり、裏面に所属部隊が書き込まれている。
「近衛歩兵第三聯隊 歩兵砲隊一班」とあり、終戦時はスマトラ島にいた
部隊である、現地で何らかの理由で認識票が必要となり(紛失、供給困難等)
現地で作られた物かもしれない。

認識標を下げている兵士
首から手拭をぶら下げているため
襷がけにしているのかは不明。
下部に写っている兵士は紐を
襷がけにしておりこれも認識標
を付けているものと思われる。
袋に縫い付けられた認識票

このようにウエストバックのようなものを作り革帯につけて使用した
のであるがここに認識票を縫い付けてある。
一緒に3008の刻印が打ってあるアルミ製八角形の板が
縫い付けられているがどのような意味があるか不明。
記名には「51師司」と記されており、認識票の二八〇〇は
部隊通称番号「第51師団司令部」であり一致する。兵団符号は「期」
この認識票は宇都宮で発掘されたものでこの師団の編成地である。
この部隊は第18軍・東部ニューギニヤで戦闘をおこない
503人中295人が生還した。
二八七八は歩兵第173連隊
編成地は高崎
終戦時は本土決戦準備をしていた。
一一〇五九は第28飛行場中隊
部隊通称番号の前に「司」と記され
ているが兵団符号「司」は第三航空軍
であり第三航空軍隷下の第28飛行場
中隊ということになる。
「航空軍」について
 航空軍とは昭和17年6月より昭和19年12まで順次設置されたもので
 これは少なくとも1つ以上の飛行師団と燃料、兵器などの補給部隊
 を有する、陸軍航空部隊では最大の兵力単位であった。
 第一航空軍から第六航空軍と教導航空軍の7個が設置された
 地域により受け持ちが決まっており第三航空軍はシンガポール
 ビルマが受け持ちであった。