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山梨県内の戦争遺跡
 1931年に始まり1945年8月15日の敗戦までの、日中戦争とアジア太平洋戦争を含めた十五年戦争を伝える遺跡が日本のあちこちに残っています。戦争遺跡とは、「近代日本の侵略戦争とその遂行過程で、戦闘や事件の加害・被害・反戦抵抗に関わって国内国外で形成され、かつ現在に残された構造物・遺構や跡地のこと」です。
 十五年戦争期の山梨県内の遺跡でも、現在知られているだけで50を超える遺跡・遺構があります。山梨県は「帝都東京」に近接するため、軍施設や軍需工場の疎開地に選ばれ、また本土決戦作戦では、相模灘・駿河湾からの敵軍上陸に対する決戦場として位置づけられ、戦争に直接関わる施設が造られました。現在、それらが県内の各地に残されています。
 ここでは、各地の戦争遺跡を紹介します。是非現地に出向いて自分の目でご覧頂ければと思います。見学の際は、県内各地の戦跡調査の会にお尋ね頂ければ情報提供ができると思います。また、危険なところもありますので安全対策をお願いします。
 以下、『山梨の戦争遺跡』から主な戦争遺跡を紹介します。

峡北地区
県内最大の地下壕−韮崎七里岩地下壕群
所在地 韮崎市一ツ谷、祖母石地区 山交バス 一ツ谷下車徒歩10分
 戦争末期の峡北地域
 各地に空襲が激化し本土決戦も叫ばれる1945(昭和20)年3月7日、陸軍航空本部は「生産組織疎開計画並びに実施状況」を明らかにしました。その内容は重要機種の生産確保のために、急速なる分散秘匿並びに地下工場化を図る緊急工事計画を実施し、月産1000機以上の生産態勢を確立するというものでした。
 立川飛行機株式会社は生産責任者、取締役社長安藤三郎の名前で陸軍航空本部あてに「地下工場の主体を韮崎地区に選定した」ことと地下工場計画として「第一期(6月末)までに3000坪、第二期(8月末)までに8000坪を七里岩断崖にずい道を掘削して建設する」ことを文書として提出しています。計画書には韮崎地下工場ずい道設計図(第一次案)が添付されています。
 そこには40m間隔で、奥行75mから100mの地下壕を15本掘削し、機械工場、鋼質工場、落下傘工場、油圧及び機械プレス工場として使用する計画が記されています。計画の中の陸軍航空本部の地下工場工事一覧表には「キ四三」隼戦闘機を月産150機生産することが目標とされ、移転工事の優先順位は第一位とされています。この頃の峡北地域には軍事施設、軍の機関、研究機関などが多く疎開してきています。また、学童疎開、縁故疎開も多くなってきました。東京空襲や都市部の空襲が相次ぎ疎開を余儀なくされた時、松代大本営が1944(昭和19)年11月には工事が始まっていたこともあり、本土決戦に備え、軍事施設疎開の重要拠点としてこの峡北の地域が位置付けられていたと考えられます。
 七里岩台地の横腹に
 韮崎市の平和観音を突端にして長野県堺まで七里(約28km)にわたって連なる溶岩台地の七里岩台上には縄文時代の坂井遺跡があります。そして東京エレクトロンなどの企業、サッカー競技で活用されている韮崎中央公園もあります。このような七里岩の横腹に韮崎七里岩地下壕群が掘られています。ここには大きく3ヶ所の地下壕が存在しています。
 青坂地下壕
 韮崎市水神町にある青坂には奥行約20m、4本の穴は横に連結し約150mに及びます。内部は水がたまっていて掘りかけのようになっています。山梨県の資料保管の目的(『韮崎市誌』)で山梨県の指示により、地元韮崎町、旧制韮崎中学の生徒が掘削しました。
 当時旧制韮崎中学の生徒で掘削作業にあたった小林賢英さん(韮崎市清哲町在住)は「鉄の棒をハンマーで打ち込んでは、その穴にダイナマイトを仕掛けて爆発させてもっこで岩を運んでいた。その作業の繰り返しで1日1mくらいしか進まなかった」と当時の様子を証言しています。
 一ツ谷から祖母石団地裏の地下壕
 更に北に進む一ツ谷から祖母石団地裏にかけては最大規模の地下壕が存在します。当時東京の立川にあった立川飛行機工場を移転する韮崎分散工事(略称二工事)として1945(昭和20)年4月頃から工事が始まりました。前年から調査等のため軍人や企業関係者が出入りしていたようです。東部第十二方面隊、熊谷組、大成建設(当時の大倉土木)、朝鮮人が工事に携わりました。現在、奥行100m規模の地下壕が6本確認されています。また、約20mおきに横穴が掘られ、碁盤目状に連結されています。
 工事は大規模で削岩機、コンプレッサーなども運びこまれ、電気も引き込み、トロッコで岩を運びだしました。電線をひいた碍子やトロッコの枕木の跡、カンテラ等をかけた木枠などが遺物として確認されています。
 現在の田富町リバーサイド地区にあった立川飛行機甲府製造所からも機械が運びこまれたり、立川飛行機本社からも機材や機械が運搬されたという証言もあります。
 1945(昭和20)年6月の『兵站月報』には7月末を工期として進捗状況50%と報告してありますが、「米国戦略爆撃調査団報告」には終戦時で5%の完成でしかないと報告されています。地下水の浸出と壕内部の崩壊のため計画にはほど遠く、工事期間中に終戦を迎えました。
 祖母石地下壕
 更に北に進み祖母石地区のはずれから穴山町にかけても地下壕があります。ここでは現在6ヶ所の地下壕が確認されています。いずれも掘りかけですが、奥行20m程度、左右に連結しているものもあれば、途中で工事が終わっているところもあります。この壕の周辺には半地下式のかまぼこ型の工場もあり、飛行機部品の製造、組立が行なわれる予定でした。
 工事は日本発送電(現在の東京電力)大倉土木(現在の大成建設)東部第十二方面隊、朝鮮人、旧制韮崎中の生徒、地元住民が携わりました。

八ヶ岳の石柱 
八ヶ岳登山道に100mごとに教育勅語の文言を刻んだ石柱

藤倉学園園児の墓 
旧高根町清里 伊豆大島から疎開し亡くなった10人の園児の墓

浅川巧の記念碑
高根町五町田 朝鮮を愛し、朝鮮の土となった日本人のモニュメント

海軍功績調査部壕
旧明野村三之蔵 1945年6月から地元住民を動員して掘削・使用

新府信号所(新府駅)
中央線の輸送力増強のために設置


峡西・峡中・峡南地区
幻の秘匿飛行場−白根町の「ロタコ」跡
所在地 南アルプス市飯野、有野、曲輪田新田 白根町桃源文化ホール北から西に延びる農道の北側
 「ロタコ」とは何か
 アジア太平洋戦争の末期、日本各地に連日のようにB29による爆撃が繰り返されていた1945(昭和20)年の春、旧飯野村(南アルプス市飯野)と旧有野村(南アルプス市有野)にまたがる広い範囲に、軍の飛行場とその関連施設を建設する大規模な工事が始まりました。
 陸軍航空本部の秘密呼称で「ロタコ」と呼ばれる、この飛行場建設工事については、多くの証言があり、短い期間ながら、文字通り地域住民を総動員しての大土木工事だったことが知られています。
 「ロタコ」の呼称が何に由来するものかは定かではありませんが、当時、東京都立川市にあった陸軍航空廠の分散計画に伴い、その第2工場建設という意味で、「ロ」(イロハで数えて2番目)、「タ」(=立川)、「コ」(航空廠)の頭文字をとって付けた略暗号ではないかと推測されます。なお、軍関係の文書等には「御勅使河原飛行場」「御勅使河原監視隊」などの呼び名が記されています。
 どのような工事が行われたのか
 『山梨県政百年史』などによれば、飛行場には、東西に幅150m、南北に長さ1500mの滑走路1本が設けられ1945年4月から中巨摩郡下の周辺20ヵ村に対して、全戸数の3割の割合で勤労奉仕が割り当てられ、連日3000人余りの村人が、滑走路および誘導路の整地作業などに従事させたれたと記録されています。重機などのない当時のことですから、鍬やジョレンで土を平らにならし、モッコやリヤカーで土を運ぶという、文字通り人海戦術でした。特に滑走路建設の中心地区となった飯野村では、戸数601戸から毎日170人が駆り出され、午前7時集合から午後5時の作業終了までの間、途中に1日2回、15分の短い休憩時間があるだけで、黙々と作業に従事しました。当時はどの家でも男性が多く兵役にとられていましたから、男手のない家では女性が代わって出労に応じなければならず、中には乳飲み子をおんぶ紐で背負いながらジョレンがけをする若い母親の姿も見られました。
 女学生時代、何度か「ロタコ」の勤労奉仕を体験した石丸あきじさん(当時白根町在住)は、「まさに”根こそぎ動員”ともいうべき、国策強制のすさまじさをものがたるもの」と、当時をふりかえっての心境を語っています。また、国民学校5.6年の児童が勤労動員されたこともあり、西野国民学校(現在の白根東小)で教員生活を始めたばかりの石川実さんは、「生徒を学校から工事現場まで歩いて引率した。子供達までもが『お国のために』と協力させられたのです」と、軍関係の工事に学童も動員・協力させられた当時の状況を述懐しています。
 掩体壕(格納庫)跡が残っていた
 飛行場の滑走路だったという付近は、戦後たちまちにして田畑に戻され、現在は静かな桃・ぶどうの果樹園地帯になっており、何本も造られたいう誘導路もすべて消滅しました。しかし、ここに飛行場があったことを物語る重要な痕跡が、まだ数カ所に確認できます。
 山梨県所蔵の「飯野・源村地区施設配置図」(戦後、県が現地踏査に基づいて作成した地図と思われ、滑走路及びその周辺の配置を知ることのできる貴重な概観図)によれば、滑走路の西から南西方向に1本の大きな誘導路が延びており、その道沿いに13基の掩体壕(格納庫)があったことが確認できます。そのうち∩型に描かれて「25m掩体」と注記されるものが5基、Π形の「18m掩体」7基、その中間の「20m掩体」1基という内訳になっており、飛行機を格納する掩体壕に3種類があったらしいことが推定できます。峡西の戦跡を調査する会が現地踏査を行なった結果、現在までに3基、掩体壕跡と思われるコンクリートの基礎部分の露出している地点が確認されています。この内、便宜的に1号掩体壕、2号掩体壕と名付けた2基の遺構は、現在は桃畑の中にありますが、幸い地権者の同意をいただき、実測調査を実施することができました。
 コンクリート基礎の立ち上がりはやや斜めに傾斜して、地中にかなり深く食い込んでいる状態で、とても堅固な構造物です。ただし、セメントの不足によるかものか、コンクリートの材質は粗く、かなり大粒の小石が混入されています。1号掩体壕では、ちょうど∩型に揆を開いたような形状で、左右対称で一対をなす基礎のほぼ全部が残っていることから、建物平面の規模が分かります。ほぼ西向きに正面間口が約20m、奥行が約15mで、一式戦闘機などが1機入るのにちょうどよい規模と思われます。形状からみて、前掲の施設配置図で最も大型の「25m掩体」に相当するものではないかと判断できます。
 ただし、この基礎の上にどのような掩い屋根が取り付けられていたのか、ドーム状に組み上げたとしてそれはどのような工法によったのかは、全くわかっていません。建物は全体的に黒く塗られたらしく、子供が屋根に登って危険なため早々取り壊され、耕作の邪魔となる基礎も多くは取り除かれたという証言があるだけです。

満州開拓殉難者慰霊碑
豊小学校の裏 豊村開拓団犠牲者の慰霊碑

玉幡飛行場跡
旧竜王町玉幡 1935年山梨飛行学校、40年熊谷陸軍飛行学校甲府分校として操縦士を養成した

立川飛行機甲府製造所跡
田富町山之神 東京都立川市の本社工場の分散移転により操業。現在も「立川」の小字名が残る

日本軽金属導水路
早川〜富士川沿い〜静岡県蒲原町の47.6kmの地下水路。1937年〜42年、多数の朝鮮人労働者が動員された

大久保地下壕跡
旧敷島町大久保 玉幡飛行場の補給燃料などを保管


甲府地区
甲府連隊の歴史と煉瓦造糧秣庫−甲府連隊跡
所在地 甲府市北新1丁目 山梨大学附属中学校
 甲府連隊の歴史
 甲府連隊は、日露戦争中の1905(明治38)年4月に樺太・シベリア攻略のために第13師団の一部として編成され、その後、山梨県・甲府市の兵営誘致運動によって1907(明治40)年に西山梨郡相川村に置かれることになりました。西山梨郡の相川村和田・小松の農地12万6千坪を甲州財閥の若尾民造が寄付し、1908(明治41)年10月兵営の建設が開始されました。木造の連隊本部・兵営や煉瓦造建築の糧秣庫・炊事場・火薬庫など30棟の施設が、翌年にかけて土木労務者・大工・瓦葺き職人の人海戦術で建設されました。1909(明治42)年4月甲府連隊(歩兵第49連隊)が入営となり、山梨・神奈川の兵隊3000人が常駐しました。それまでの相川村は甲府市に隣接する農村でしたが、兵営に3000人が生活するようになり、物資の調達や人員の往復が中央本線甲府駅との間で頻繁に行われ、甲府駅北口の朝日町通りの商店街が盛んになり、飲食街・花柳街も形成されるようになりました。
 甲府連隊は1936(昭和11)年には、二・二六事件の鎮圧部隊として東京市へ出動したり、その年には満州に移動して留守になり、日中侵略戦争に積極的に参加しました。第49連隊が満州に移動して留守になり、また侵略強化のため、翌年に歩兵第149連隊が、1939(昭和14)年には歩兵第210連隊と歩兵第220連隊が、甲府の兵営で特別編成され、甲府連隊は4つの軍隊の総称となりました。1944(昭和19)年11月レイテ島で歩兵第49連隊は大部分壊滅しました。1945(昭和20)年8月敗戦により、歩兵第49連隊はセブ島で、歩兵第149連隊は上海で、第210連隊はルソン島で、第220連隊はニューギニアで、それぞれ武装解除されました。
 敗戦後、甲府連隊は撤収され、他県の軍隊跡地と同じように文教地区になり、1949(昭和24)年12月山梨大学学芸学部附属小学校・中学校北新町校舎となりました。他の兵営跡には、山梨大学発酵研究所、県高等看護学院、市立北新小学校、市営団地が建ち、最近まで残っていた木造兵舎をそのまま利用していた山梨大学芙蓉寮、そして衛戍病院門柱(国立甲府病院附属看護学校門)も解体されました。現在残るのは、煉瓦造糧秣倉庫1棟のみです。
 煉瓦造倉庫の価値と保存運動
 甲府連隊糧秣庫であった煉瓦造倉庫はその後、附属中学校の教室、倉庫、クラブ室として使用されました。今や煉瓦造倉庫のみが甲府連隊の最後の建築物として注目されることになりました。1996(平成8)年県教委の山梨県近代化遺産総合調査の重要遺構に甲府連隊糧秣庫が調査選定され、改めて文化財登録候補として評価されました。この煉瓦造倉庫は、1908(明治41)年頃に建設され、間口5間奥行20間面積100坪の煉瓦造平屋建建築で、オランダ積みの組積造で甲府煉瓦製造の赤煉瓦を用いた赤煉瓦壁や、アーチ式の戸口・窓・日本瓦葺きの屋根を持つ、明治期の洋風建築で県内に現存する最大規模の煉瓦建造物です。
 ところが、1998(平成10)年になり、大雪のため煉瓦造倉庫屋根瓦・煉瓦壁の一部が破損し、危険建物となったので解体したいという山梨大学の相談を受けて、1999(平成11)年に山梨建築士会・山梨郷土研究会・山梨県考古学協会・山梨戦跡ネットの4団体が、甲府市長へ「煉瓦造倉庫の国有形文化財登録についての要望書」を提出しました。文化団体の要請を受けて、県学術文化財課・市文化芸術課が文部省・山梨大学と協議をし、保存の方向で進んでいます。(事務局 保存が決まり活用されています。)私たちは、煉瓦造倉庫を登録文化財として保存し、地域の文化ギャラリー施設・平和教育資料室としても活用してほしいと理解を広げています。

焦土と化した城下町−甲府空襲跡
1 甲府空襲
防空演習
 「空と地の攻防絵巻 軍民協和の実ここに凄絶・各地に死闘展開」
 これは、1936(昭和11)年4月22日付の『山梨日日新聞』の一面記事の見出しです。この前日21日第1回県下防空演習が行われました。演習は陸軍航空隊練習機3機を「敵編隊」に見立て、甲府連隊の高射砲隊・機関銃隊が迎撃するという想定で実施され、午前8時に、県会議事堂内に設置された防空演習統監部により発せられた「警戒警報発令」によって開始、消火・救護・灯火管制などの訓練をし、夜間を含む4回わたる「敵機空襲」を「撃退」して翌22日午前9時に終了しています。
 甲府市では、この演習の1ヵ月前に臨戦態勢下の民間防空団体として、市長を団長とする市連合防護団が発足し、各小学校区ごとに分団を設置して、本演習に備えて予行演習も行われました。もっとも、この時期の演習は市民の戦意高揚的な性格が強かったようです。その後、防護団は1939(昭和14)年4月に消防組(消防団)と統合、警防団として組織強化され、次第にバケツリレーなどの防空演習は日常化、そして「空襲に立ち向かう」とする「防空挺身」というスローガンの下でエスカレートし「焼夷弾は消せる」「銃後の守りは完璧だ」という幻想を市民に抱かせることになります。また、空襲に備えて、白い壁の家や蔵は黒く塗りかえられ、電灯にも黒い布がかぶせられるようになります。甲府城の城下町として、土蔵の白壁が美しかった甲府市は一変します。そして第1回県下防空演習から9年後、これらの訓練が、いかに無意味で何の役にも立たなかったかということを市民たちは痛感することになるのです
甲府空襲
 「背後に山を負った甲府だ。戦国時代、(中略)城郭を築かなかった信玄も躑躅が崎背後の自然の天嶮には人間と同様大きな信頼感を持ったものらしい。その自然の山岳形象が、敵機爆撃にも相当の味方として備えていることは一つの強みであるといえる。」(『山梨日日新聞』1945年7月5日「銃座」欄)
 この記事には、空襲に対する不安を一掃し、市民の戦意を何とか高揚させようという意図があります。事実、本土空襲は1944年7月のアメリカ軍によるサイパン島占領以降、現実のものとなり、大都市から中小都市へと攻撃目標が移ってきますが、東京からの疎開者もあり、甲府周辺は安全だろうということで、市民の防空対策は遅れがちであったようで、県議会でも甲府市内の防空壕の不備が指摘されています。
 1945(昭和20)年5月に入ると、B29爆撃機は甲府上空にも姿をみせるようになり、5月19日には爆撃を峡西、峡南の山中2ヵ所に投下、負傷者が出ています。また、6月9日には国母地区の田圃に爆弾が投下されましたが、被害は出ていません。同じ9日から数日にわたってビラもまかれました。
 この日、甲府の天気は晴、日中の最高気温は29度。空襲が始まる約2時間前の午後10時には22度で、むし暑い夜でした。午後11時23分警戒警報が発令されました。この日、甲府上空を向ったB29は138機、13機の目標誘導機がM47曳光焼夷弾を投下した後、後続の3つの編隊を組んだ125機がE集束焼夷弾731tを投下しました。甲府空襲の第一弾はこれまで愛宕山に投下されていましたが、多くの証言から相川地区塚原町であったようです。11時43分(アメリカ側の記録では11時47分)に第一弾が相川地区塚原町慶音院に投下されました。11時47分、照明弾が愛宕山に投下。11時50分には愛宕山から、東部、東南部、南部、西部と市の周辺地域に、市全体が明るくなるほどの焼夷弾が投下され、市民の逃げ道はさえぎられ、市の中心部にじゅうたん爆撃が加えられます。11時45分にようやく空襲警報が発令、午前0時には、知事官舎・市役所が炎上、周囲は炎と黒煙で見通しは不可能となり、0時30分には県病院も炎上します。午前1時45分焼夷弾攻撃は止みますが、火の勢いは衰えることもなく、消火活動は全く不可能で手の付けられない状態でした。特に湯田地区には雨あられのように焼夷弾が投下され、消火にあたるはずの警防団員もちりぢりに退避して集まらず、ついに湯田国民学校(湯田小学校)にも火は燃え移ります。翌7日午前2時20分の空襲警報解除までの約2時間30分で、市役所・甲府地方裁判所・山梨日日新聞社・山梨中央銀行本店・山梨師範学校男子部(山梨大学教育人間科学部)・山梨工業専門学校(山梨大学工学部)・市内6校の国民学校(琢美・相生・湯田・春日・新紺屋・女子国民)・一蓮寺・遠光寺など多くの建物や学校・名刹などをはじめとする多くの家屋が焼け、市街地の74%が焦土と化し、1127人が犠牲となりました。一夜明けてみると甲府市は松林軒・岡島百貨店ビルの外観だけを残し、見渡すかぎりの焼け野原、いたるところに焼死体や窒息死体がころがり、地獄さながらの有様であったといわれています。夏の暑い時期で、腐乱が早く、異臭が漂うなか、身元不明の遺体も多く、その収容は困難を極めました。空襲の被害が大きかったのは湯田地区で、総戸数3877戸のうち、99.97%(3865戸)が被災、死者も最高で、386人が爆死、窒息死もしくは高圧線による感電などで亡くなっており、そのほとんどが一蓮寺境内や太田町公園内へ避難した人たちだったのです。
 被害は、石和・玉穂・甲運・富士見・境川・春日居・玉幡・昭和・竜王など甲府周辺の13町村にも及びました。
 これだけの被害を受けながら、市郊外の玉幡飛行場(現在の竜王町)にあるはずの陸軍の戦闘機はただの一機も発信せず、市内に駐屯しているはずの陸軍からも一発の対空火器は火をふきませんでした。つまり、138機のB29搭乗員は、2時間30分甲府が炎上するのを空の上から楽しんでいたことになります。これは、甲府にいたはずの陸軍軍人も同様で、ある少尉は、戦後の手記で「生地獄であると知りつつも」と前置きして「あまりのみごとさにみとれるほどで」、「破滅の美」であるとし、自分が所属する部隊に着いてからは、「別に何もすることも」なく、「ただポカーンとして、これが本当の『うわの空』」で「防空壕の入り口で煙草を吸って」いたと記しています。栄和女学院(英和女学院)に駐屯していた兵隊も銃をもってうろうろするだけ、中には機関銃や小銃をおきざりにして何処かへ逃げ去った兵隊もおり、また、隊列を組んだ軍隊が避難民をけとばして逃げ去ったとか、春日小学校校庭では逃げてきた市民を銃を持った兵士が追い返した等々。防空演習によって「完璧」であったはずの防空態勢は、警防団はもちろん、軍隊でさえもこの有様でした。63部隊6名が、主要建物の消火のために応援にきたのは、午前3時10分。40名の応援部隊が来たのは午前4時、もう夜が明ける頃でした。市街地の連隊司令部や兵舎は不思議なことに無傷であったにも関わらず、救援に来たのは、数十人程度でした。果たして軍隊は市民を守ろうとしたのでしょうか。
 悪夢はひとまず終わりました。しかし、市民の空襲への不安は消えず、その後、県内では、富士吉田(7月30日・8月13日)・大月市(8月13日)が空襲の被害を受けることになります。

2 甲府空襲跡
一蓮寺いしずえ地蔵

 甲府空襲では、現在の太田町公園・一蓮寺に多くの市民が避難しましたが、投下された焼夷弾は猛烈な火災を引き起こし、風速30mという猛烈な火事嵐が発生しました。太田町付近では大木が倒れ、市民の貯金通帳や小切手が塩山方面まで舞っていってしまい、後に市役所へ届けられたが、その持ち主の生死がわからなかったようなこともありました。また、現住職の河野叡祥氏によると、一蓮寺の鐘楼が鐘もろとも隣の公園の池の中へ約16m東に飛ばされ、池の中におちたというような信じられない話も残っています。当時の住職であった高尾察玄氏は、池の中に避難していて、その鐘の直撃を受け、その傷がもとで破傷風になり、1週間後に亡くなりました。
 湯田地区の死者は、386名で、そのほとんどが一蓮寺境内やその隣の太田町公園に避難していた人たちでした。その一蓮寺の庭に市内の死体が運ばれ遺族の確認が行われました。死体の火葬も行われましたが、燃料が不足して思うように進まず、また、臭気もひどかったことから47体を火葬して取りやめになったそうです。7日から4日間かかった死体処理で、一蓮寺には366体が仮埋葬されました。その死体は1950(昭和25)年3月に大泉寺に改葬されますが、一蓮寺の仮埋葬地の一角に同年建立されたのが、戦災死没者供養の地蔵像です。この地蔵は1999(平成11)年10月、古くなった堂宇の改築を契機に、「いしずえ地蔵」と命名され、現在でも線香の煙が絶えません。
甲府会館(旧松林軒ビル)
 所在地 甲府市中央一丁目14−12 山交バス 中央四丁目下車徒歩5分
 市の中心部で、通称「銀座」と呼ばれる繁華街のほぼ真ん中に、甲府会館という各種娯楽施設が入居しているビルがあります。このビルは1937(昭和12)年9月19日に開店した県内最初のデパートであった旧松林軒ビルで、この規模の商業ビルとしては県内最古の建物です。
 昭和初期、松坂屋・三越・高島屋といった東京の大手デパートが、甲府市内の劇場を会場として出張販売をし、それがたいへん人気を集めたことから、甲府の商店主たちは危機感を持ち、東京のデパート進出を食い止め、地元甲府の小売店100店を収容するという甲府ビルディング建設計画を発表しました。1931(昭和6)年3月に着工されましたが、経済恐慌によって資金計画が狂い、工事は中断。結局、菓子店であった松林軒が買い取り、県内初のデパートとして開店、翌年開店した岡島デパートとともに人気を集めました。地下が食堂、1〜4階がショッピング街、5階が食堂で6階が余興場、屋上は子供の遊技場となっていました。甲府空襲では、岡島デパートとともに外観だけが焼け残りました。その爪痕は現在も屋上の壁などに残っています。戦後は、静岡県浜松市の松菱デパートが経営することになり、その後現在の甲府会館となっています。
湯田小学校旧正門
 所在地 甲府市湯田1丁目8−1 山交バス 北大路通り下車徒歩2分
 甲府市立湯田小学校は甲府市中心部より南に位置する創立120年を迎えた歴史ある学校です。甲府空襲の際、この学校のある湯田地区は、町の総戸数の99.97%が焼失し、死者も他の地区よりも飛び抜けて多い地区でした。このような状況の中、小学校も全焼し、現在校庭東側に沿革を刻んだ石碑とともに立っている旧正門のみが焼け残りました。はげしい空襲にもかかわらず残った旧正門も貴重な戦争遺跡と言えるでしょう。
戦災殉難者無縁供養碑
 所在地 甲府市岩窪町 市営つつじが崎霊園内 山交バス 護国神社入り口下車徒歩15分
 市営つつじが崎霊園の北側、愛宕山子どもの国へ向かう道路沿いに、この供養碑が建立されています。甲府空襲によって、1127人もの犠牲者が出ましたが、当時、市の警防課長であった上野幸作氏の手記によるとこの多数の死体は、いったん一蓮寺境内表庭に集め、検死の上、家族に引き渡しました。市内の死体の運搬は1体ずつトタン板に乗せ、これをトラックで、5、6体から7、8体を一車として運びましたが、夏であったため腐乱が早く、臭気もひどかったことから、嘔吐をする人が絶えず、1度行なった人が2度と運搬には行かないなど、作業は困難を極めました。7日から4日間で死体処理は終わりました。遺族へ引き渡したもの267体、一蓮寺で火葬したもの47体、光沢寺に仮埋葬したもの119体、長禅寺に仮埋葬したもの31体、その他の寺院3体、合計833体が埋葬されました。当時の市職員三神岩一氏の手記によると、その後、1950(昭和25)年3月22日から一蓮寺境内の遺体の改葬事業がはじまり、遺骨は大泉寺に預けられました。その後の経緯については、供養碑に次ぎのように記されています。

 昭和二十年七月六日夜甲府市は戦災でたちまちのうちに全市の八割が焦
土と化し七百七十五人の尊い市民の命が失われた。その際に三百七十三の遺
体は引き取り手がなく、一時太田町公園に仮埋葬した。昭和二十五年四月
この遺体を火葬したが、そのうち二百十三の遺骨は遺族の手に引き渡され、
残り百四十の遺骨は尓来十年なお無縁の仏として岩窪町大泉町に安置され
てきた。その無縁の仏を新たに設けられた甲府市営公園墓地に迎え戦災殉
難者のみたまの永遠に安らかんことを心から祈念して供養碑を建立した。
  昭和三十四年八月十日           甲府市長 鷹 野 啓次郎

重新徽典館碑
 所在地 甲府市武田4丁目 山梨大学教育人間科学部内 山交バス 山梨大学下車徒歩2分
 甲府駅北口から、武田通りを北に1kmほど上ると、山梨大学があります。道を挟んで西側が教育人間科学部です。正門より100mほどの北門を入って右側の木の下に碑があります。
 碑文は、1843(天保14)年に、幕府の甲府学問所であった徽典館の学舎を改築した際、記念に建てられましたが、甲府空襲によって師範学校男子部の校舎が全焼した際、焼夷弾の炎にまかれたらしく、碑文全文がひび割れています。甲府空襲の爪痕は、今ではほとんど目に見えるものがない中で貴重なものといえます。
焼夷弾の発掘
 戦争遺跡は、地上のみあるものではありません。遺跡ですから、当然、地面の下にもあります。近年、甲府市内では、建物の改築や公園等の整備など再開発事業が進められています。このような事業に先だって、発掘調査が行なわれますが、この調査の際、甲府空襲の時に投下された焼夷弾が発見されることがあります。たとえば、1995(平成7)年、県立甲府工業高校校舎改築工事では、旧グランド(現在の新校舎)の一角からM69焼夷弾八点とE集束焼夷弾(弾頭)3点が発見されています。また、現在、整備が行なわれている甲府城からも1999(平成11)年に焼夷弾が見つかっています。これらは県立考古博物館に収蔵されています。また、甲府市北部の山林からも焼夷弾が出てきます。その一部は舞鶴公園南の甲府市社会教育センターに保管されています。このような遺物も戦争の悲惨さを伝えるよい資料といえます。

満蒙開拓青少年義勇隊の碑
甲府市岩窪の護国神社 234名の犠牲者の慰霊碑


峡東地区
山梨市に残る兵器貯蔵庫−兵器補給廠山梨分廠
所在地 山梨市南(万力公園北西) JR中央本線 山梨市駅から徒歩20分
 現在、山梨市の万力公園の道を挟んで北側にある小山の斜面に、奥行10mほどの横穴が2つ残されています。この横穴は高さ約2mで、奥で1つにつながっています。穴の入口は木でふさがれていますが、木をどかすと中に入ることができます。
 この横穴は、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から1945年初めにかけて、「東京陸軍兵器補給廠山梨分廠」として掘られた兵器貯蔵庫でした。記録によると、56本の兵器貯蔵庫が掘られています。この壕の中には、多くの高射砲などの砲弾・弾薬やガソリン・軽油などが終戦時まで保管されていました。近くに建てられた倉庫には、銃剣や地雷探知機、火焔発射機、無線機、発電機などが保管されました。
 兵器貯蔵壕の掘削作業には、近郷の勤労奉仕の人達約800人、日川中学の生徒約300人、農蚕学校の生徒約150人、山梨高等女学校の生徒らが参加していたようです。担当の陸軍の部隊は菊水隊と呼ばれていて、20人ほどの兵隊がいました。当時日川中学の生徒だった人の証言によると、掘削の作業はツルハシやガジを使った手掘りで、一つの壕に10人ほどが割り当てられ、1日にだいたい30cmくらい掘って、掘り出した砂はトロッコで運び出したそうです。
 現在確認できる壕は2本だけのようです。戦後には、サツマイモの貯蔵庫として使われたこともありました。今この横穴が兵器貯蔵壕だったことを知る地元の人も少なくなりました。

糧秣本省東山梨出張所跡
塩山市藤木 陸軍の携帯用食料を製造した工場跡

勝沼町の藤井葡萄酒醸造所
勝沼町藤井 海軍の要請により酒石酸を生産した木造の醸造施設が残る


郡内地区
むすび山山頂に残る石積みの聴音壕−大月防空監視哨跡
所在地 大月市花咲 むすび山山頂 大月市立中央病院から徒歩15分
 むすび山
 大月監視哨跡は、大月市立中央病院南側のむすび山(462.2m)という小高い山の山頂に残っています。この山頂は、平坦部になっていて円錐状に石で積まれた(間知石積み)直径約4.5m、深さ約1.5mの聴音壕と事務所の基礎コンクリート跡等が残っています。南側には富士山が見え、360度見通しがいい場所です。
 アジア太平洋戦争末期1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦の敗北とサイパン島陥落によって、日本の「絶対国防圏」は崩壊し、サイパンからのB29爆撃機による本土空襲が始まりました。B29は富士山を目標に飛来し、右に折れて京浜方面に向い空襲を行いました。
 大月監視隊本部
 米軍の空襲に備え、1942(昭和17)年に県内の甲府、大月、南部に防空監視隊本部が設置され、その下にそれぞれ15,10,7ヵ所の監視哨が置かれました。1943(昭和18)年に大月監視隊本部は、猿橋から大月に移転しました。傘下には、丹波山、西原、上野原、七保、大月、笹子、谷村、吉田、精進、河口の監視哨がありました。これらは山の頂や街中に置かれました。
 監視哨は、哨長1名、監視隊員10名で組織され三交代で監視にあたっていました。監視隊の役割は、昼間は2名で双眼鏡を使い空を監視し、夜間は1名が監視、1名は聴音壕の中で飛行機の音を聞き方向や機種を探り、1名は電話番として得られた情報を直通で東部軍管区へ通報していました。東部軍管区では「警戒警報」「空襲警報」として発令したり立川にある飛行集団本部に連絡し、迎撃の飛行機を発信させたりする判断の材料としました。
 1945(昭和20)年8月13日の大月空襲を体験した大月市七保町の小俣敏男さんは、当時七保監視哨に勤務していて艦載機が監視哨の上空を飛び去っていく様子を「本来なら発見時刻、何時何分何秒、敵、味方、機種、高度何米、飛行方向を報告するのですがその余裕は全くありませんでした」と振り返っています。
 大月空襲
 大月市は、大月空襲で当時勤労動員で働いていた旧制都留中、都留高女の生徒や市民が亡くなったり大きな被害がでました。当時の大月は中央線、甲州街道等の交通の要所であり、興亜航空、大月産業、能登飛行機等の軍需工場、都留中に立川航空廠、都留高女に陸軍航空本部第4技術研究所の工場疎開などがあり、地方の小都市大月も戦争を支える重要な場所でした。
 記念標の建立
 大月市は、戦後37目の1982(昭和57)年に「人類永遠の平和を樹立するため、非核三原則の完全実施を願い、・・・・・・核兵器廃絶の世論を喚起するため」核兵器廃絶平和都市宣言を行ないました。市庁舎の壁には核兵器廃絶平和都市と大きな看板が掲げられています。
 さらに大月市教育委員会(大月公民館)は1991(平成3)年に「戦後半世紀を経た今、この地から望める大月の町を眺めるにつけ、世界に平和が続くことを祈らずにはいられない。50年前の苦しみを平和への一里塚ととらえ、・・・・・・決して戦争賛美の為ではない」として、むすび山の頂上に防空監視哨跡に記念標を建立しました。

富士吉田にも空襲があった−武蔵航空工場被爆殉難者の碑
 所在地 富士吉田市竜ヶ丘2丁目 竜ヶ丘自治会館裏 富士急バス 竜ヶ丘下車徒歩5分
吉田空襲殉難碑
 富士吉田市竜ヶ丘の竜ヶ丘自治会館の裏側に、武蔵航空工場被爆殉難者の「殉難碑」が残されていま
す。1945(昭和20)年7月30日、8月13日に吉田空襲があり多くの犠牲が出ました。この「殉難碑」は1957(昭
和32)年7月に剣丸尾武蔵会が建立したものです。碑文には次ぎのように書かれています。

武蔵航空工場被爆殉難者之碑 題字 西山巧記
太平洋戦争時、此の地に二万坪の敷地を整地して広大な工場が建ち並び
勤労学徒隊を含めて二千余名の者が航空機の生産に従って居りました。
昭和二十年七月三十日午後一時突如として米軍艦載機数編隊の襲撃を受
け一瞬にして十二人の尊い生命を失いし二十余人の負傷者を出すと
いう惨事に至りました。越えて八月十五日終戦を迎え爾来星霜十有二年
工場跡は一望の水田と変わり世人の記憶も漸く薄れゆこうとするとき元
従業員一同亡き友を偲んで記念碑建立のことを発起しましたところ過去
朝夕にねんごろな供養を続けてこられた元社長西山巧記殿の絶大なご協
力と県市当局並びに有志縁故多数の方々の御力添によってここに成就す
ることに為ました。謹んで十二柱の英霊の御冥福を祈るしだいであります。

ロケット弾
 1945年7月30日に、悲劇が起こりました。当時、学徒動員の監督にあたっていた富士吉田市小明見在住の舟
久保寛さんは、生徒を避難させ、工場にもどりましたがグラマン戦闘機のロケット弾に被弾して負傷しました。
 この空襲で、グラマン戦闘機2機が工場を爆撃し、4機が岳麓農工学校を爆撃しました。工場では生徒は避難し
て無事でしたが工員は避難しなかったので12名の犠牲者を出しました。また、8月13日にも空襲があり、農工学
校の講堂などに被害がでました。
武蔵航空吉田工場
 現在の竜ヶ丘自治会館周辺に、武蔵航空吉田工場が建てられていました。周囲を赤松林に囲まれ敷地面積は2
万坪で、皇国第6023号工場の指定を受け、第1工場と第2工場が稼動していました。工場では、工員と勤労動員
の学徒約2000人が働いていました。学徒は、郡内の6つの旧制中学校と高等女学校の生徒から編成されていま
した。この工場は、立川陸軍航空廠の管理下にあった中島飛行機武蔵製作所の下請けを行なっていました。主に
戦闘機と迎撃機「銀河」の翼を生産したり発動機の修理を行なっていました。
特攻機の整備
 その後は、梨ヶ原にあった北富士演習場内の秘匿飛行場に運ばれてました。北富士演習場には立川陸軍航空
廠北富士派遣隊駐屯しており、特攻機の整備、発動機の分解・修理、組立を行なっていました。発動機には赤丸
で印がされて鹿児島の知覧特攻基地に送られたと言われていました。武蔵航空の全貌や何故富士吉田が空襲さ
れたのか明らかにする必要があります。

丹波山防空監視哨跡
丹波山村高尾 大月防空監視隊本部の傘下の監視哨の1つ

慰霊の森
大月市賑岡町 1913年建立の忠魂碑と1944年建立の忠霊塔がある

広瀬大尉の慰霊碑・由緒碑
1945年2月にB29に飛行機で体当たりして墜落した広瀬大尉の慰霊碑

軍刀利神社 
旧上野原町棡原井戸 明治〜昭和期に兵役逃れの神社として繁栄

上野原国民学校防空壕跡
上野原小学校グランド北側

旧上野原小の楠木正成像
旧上野原町上野原の牛倉神社境内 紀元2600年記念で建立

東郷国民学校宿舎の看板
大月市猿橋の大黒屋 東京麹町区東郷国民学校宿舎の看板

平和祈願の石
大月市駒橋の厄王神社 大月空襲の時、桂川から吹き上げられた石

遺髪塚
大月市御太刀の行願寺 1945年8月13日の大月空襲で犠牲となった都留高女生の慰霊碑

アッツ観音
都留市四日市場の保寿院 アッツ島で玉砕した山崎部隊長の父親が建立

満州南都留分村殉難の碑
都留市仲町の大神宮境内 満州開拓団の犠牲者を祭った慰霊碑

天狗社
忍野村内野 地元の人たちはお天狗さんと呼び、多くの人が参詣した

北富士演習場
富士吉田市他 1938年に陸軍演習場として開設。戦後米軍そして自衛隊の演習場として現在も使用

魔王天神社
鳴沢村西原 聞き神様といい、願いごとを何でも聞いてくれた