月の輪まつり・出雲国風土記
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歴史のある由緒あるおまつり

安来の郷の夏まつりと言えば、有名な「月の輪まつり」。安来といわず山陰地方を代表する夏まつりの一つで、その歴史は非常に古く、神代の昔「出雲国風土記」が書かれた時代よりももっと昔にまでさかのぼると伝えられています。

ワニは、山陰ではサメのこと、そのワニに・・・・

その「出雲国風土記」によると、この地に語臣猪麻呂(かたりのおみのいまろ)という有力者が住んでいたそうで、時は天武天皇三年(西暦674年)の7月13日のこと、安来の郷の北の海岸に毘売埼(ひめざき)と言う場所があり、猪麻呂の娘が波打ち際を散歩していると、突然、和爾(ワニ=鰐鮫、今風に言えば人食い鮫のジョーズ)が現れ、あろうことか、娘さんはこの鮫に咬みつかれ、黄泉国(よみの国)へ行くことになってしまいました。

愛娘を失った猪麻呂の嘆きは尋常ではなく、さながら「立てば号泣、座れば悲嘆、歩く姿は夢遊病」のあり様だったそうで、娘を葬った場所を決して離れようとはしなかったとのこと。数日が経ち、ようやく気を取り直した猪麻呂は娘の仇討ちを心に誓い、磨いて鋭くした鉾を手に海岸へ赴き、とある場所に鎮座して八百万(やおよろず)の神々に自分の心情を切々と訴えました。すると、神様に願いが通じたとあって百匹あまりの鰐鮫が静かに一匹の鰐鮫(多分こいつが娘に噛みついた鰐鮫)を取り囲み、おもむろに連れ寄って来たかと思うと、猪麻呂の居る場所から動こうとしなかったという伝説、この一説がかの有名な「猪麻呂伝承」。

慰霊祭がきっかけに

そして月の輪まつりは、地元の人々がこの娘の御霊を慰めるため始まった慰霊祭が起源とされ、江戸時代・元禄の世に入ると、家内安全無病息災を祈願した神仏混交の神事となりました。「月の輪」の語源は、串刺した和爾の形をとって弦月形の紙燈を捧げたことからこの神事を「月の輪神事」と呼び、それが今日に至っているとのこと。

そして、毎年8月になると14日〜17日の4日間(娘を失って4日後に鰐鮫を退治したという古事に因む)、笛や太鼓のお囃子と、「エンヤエンヤ、デゴデットーヤー」(「曳けや曳けや、皆出て手伝えや」の意味だそう)の掛け声とともに、神事に用いるための山車を曳き、夜の街をにぎやかに練り歩く今のスタイルが確立されました。またこのまつりの期間には、安来節全国優勝大会が3日間に渡り開催され、神事と安来節と旧暦のお盆の行事とが一体となって、市内全体が夏一番の盛り上がりに達します。

上の記述にもよく登場する出雲風土記とは、都を平城京に定めていた奈良時代の和銅六年(西暦713年)、時の政府の指令により編纂が始められたとされています。編纂責任者は出雲国造(いずものくにのみやつこ)であった出雲臣広島(いずものおみひろしま)で、執筆には神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)という学者が関わっています。もちろんこのことも風土記に明記されていました。

この出雲国風土記は、いにしえの出雲の国の様子を知る有力な手がかりとなる貴重な文献であると同時に、かの高名な哲学者デカルトの言葉『われ思う、故にわれあり』ではありませんが、安来が安来であり続けるためのアイデンティティ(自己同一性・主体性・身元)の源泉ともなっているのは言うまでもありませんね。

神代の昔「出雲国風土記」の一説に残るかの有名な「猪麻呂伝承」。この物語で黄泉の国へと旅だった語臣猪麻呂(かたりのおみのいまろ)の娘の霊を慰めるため始まった慰霊祭が、このまつりの起源とされています。三日月型の大きな紙灯ろうを掲げた4台の山車が、勇壮な笛や太鼓の演奏をしながら市内を練り歩きます。